父の訃報を受けたのは、配達の途中だった。
海沿いの古い町で、私は軽バンを路肩に寄せ、ハザードをつけたまま、しばらくハンドルを握っていた。
スマホの画面には、妹の短い文面が光っていた。
――お父さん、朝、だめだった。来られる?
来られる、も何も、行かないわけにはいかない。
それなのに私は、妙に事務的な指で「了解」とだけ打って、送信した。
潮の匂いが、少し開けた窓の隙間から入ってきた。生ぬるく、鉄っぽく、現実の匂いだった。
私はそのあと、会社に電話を入れた。声がうまく出なくて、喉の奥で砂を噛んでいるみたいだった。
「すみません、家のことで。今日の便、代わってもらえますか」
相手は事情を聞かず、「いいよ」と言った。その優しさがかえってつらくて、電話を切ったあと、私は一度だけ額をハンドルに押しつけた。
父とは、三年、まともに口をきいていなかった。
正確に言えば、父は何度か電話をよこした。夜の九時すぎ、だいたい私が風呂にも入らず寝落ちしそうな時間に。私は画面に出る名前を見て、見なかったことにした。出たところで、どうせまた、あの調子だと思っていたからだ。
――お前の仕事は、いつまでそんな日雇いみたいなことをしてるんだ。
最後に会った日の父は、そう言った。少なくとも、私にはそう聞こえた。
あの日、私は朝から不在票ばかりで、夕方にはクレームを一本食らっていた。雨で伝票はふやけるし、靴下まで濡れるし、昼はコンビニのパンを運転席で押し込んだだけだった。配達の仕事を始めてまだ半年、身体も気持ちも、まだ荷物みたいに扱いが雑だった頃だ。
実家に寄ったのは、たまたまだ。母の仏壇に線香をあげろと妹に言われ、ついでに米でももらおうと思った。そういう、情けない理由だった。
父は台所で魚を焼いていた。換気扇の音がやたら大きく、背中越しに「食っていくか」と言った。
私は「時間ない」と答えた。ほんとうは少し腹が減っていた。
そのあとだった。父が、振り向きもせずに言ったのは。
――日雇いみたいなことを。
私は笑った。たぶん、いやな笑い方だったと思う。
「そうだよ。日雇いみたいなもんだよ。毎日、他人ん家の玄関に頭下げてさ」
湯呑みを置いた音だけが、やけに大きかった。
父は何か言いかけて、黙った。魚をひっくり返す箸の音だけがした。私はその沈黙を、軽蔑だと思った。いま思えば、ずいぶん都合のいい解釈だった。
帰り際、父は玄関で、私の靴を見ていた。かかとが片方だけ妙にすり減っていたからだろう。
「ちゃんとしたの、買え」
それが追い打ちに聞こえて、私は「うるさい」とだけ言って戸を閉めた。
父の顔は見なかった。
見なかったことを、あとで何度も思い出した。
葬儀は、町内の小さな会館で済んだ。冬の海辺の葬式らしく、みんな黒い服の肩に塩の粉みたいなものをのせていた。参列したのは親戚が数人と、父の釣り仲間らしい老人が二人。焼香のとき、そのうち一人が私の耳元で「頑固やけど、やさしい人やった」と言った。
そういう評判は、生きてるうちに本人に言ってやってくれ、と思った。
遺影の父は、少し照れたように笑っていた。写真屋で撮った顔じゃない。たぶん妹がスマホで撮った、台所かどこかの一枚だ。私はその顔に腹が立って、それから、腹が立つ自分にまた腹が立った。
夜、妹と二人で実家を片づけた。
海の近くの家は、あちこちが潮で傷んでいる。窓枠はざらざら、ふすまの木は白く粉を吹き、引き戸は少し傾いていた。父は器用な人だったから、生きているあいだは、そういうガタつきをすぐ直してしまっていた。人がいなくなると、家は急に年を取る。
「これ、お兄ちゃんにだって」
妹が居間の引き出しから、古い携帯電話を出した。折りたたみの、角の塗装がはげた機種だった。父が長く使っていたやつだ。裏蓋に小さなひび。ストラップは外されていて、穴だけ残っている。
「なんで俺に」
「知らない。でも挟んであった」
携帯に、メモが輪ゴムで留めてあった。
――宏へ
父の字だった。少し右上がりで、急いで書いたみたいに最後の払いが短い。見慣れた字なのに、それだけで喉の奥が熱くなった。
こんなときだけ、親らしいことをするなよ。
そう思った。思ったくせに、私は携帯をひっくり返して、傷の位置まで確かめていた。子どもの頃、父に買ってもらった初めての自転車を、何度も触って確かめたみたいに。
妹は黙って台所へ行き、やかんに水を入れた。うちの兄妹は、つらいときほどしゃべらない。これは父の遺伝だと思う。
充電器は押し入れの文房具箱から出てきた。輪ゴム、古い電池、使わない延長コード、いつか使うつもりの金具。父は何でも取っておく人で、私はそれを「捨てられない性分」と笑っていた。
けれど、その夜ばかりは、その性分に助けられた。
電源が入るまでずいぶん時間がかかった。黒い画面に、やっと灯りがともる。待受は海だった。うちの裏の防波堤から撮った朝の海。水平線のところだけ、薄く桃色になっている。
「お父さん、こんなの撮るんだね」
妹がぽつりと言った。
私は「な」とだけ返した。な、の一文字で、妙にいろんな気持ちが詰まった。
データを開くと、「録音」のフォルダがあった。
胸が、いやなふうに鳴った。
私はすぐには押せなかった。父の言い分が入っているかもしれない。逆に、病院の説明とか、どうでもいいテレビの音かもしれない。どっちにしろ、聞いたら何かが決まってしまう気がした。
妹が湯のみを二つ持ってきて、向かいに座る。湯気の向こうで、妹の目のふちが赤い。
「聞かないの?」
「……聞く」
最初の録音は、波の音だけだった。ざあ、ざあ、と風をかぶった音。途中で父の咳払い。すぐ切れる。
二つ目は、釣り仲間との会話だった。餌がどうだ、潮がどうだ、そんな話。父が笑っていて、私は少し驚いた。父は家ではあまり笑わない人だったから。
三つ目。日付は、私が父と喧嘩した翌日だった。
再生ボタンを押す指が、わずかにすべった。
最初、無音。
それから、古い機械のサーッという薄いノイズ。
やがて父の声がした。
「……宏に言うつもりだったこと、うまく言えんかったから、残しとく」
私は思わず、息を止めた。妹も動かなかった。
父の声は小さかった。叱る声じゃない。誰かの寝息を起こさないように話す声だった。
「日雇いみたいだ、なんて言い方、悪かった。あれはな、仕事のことを馬鹿にしたんじゃない」
そこで一度、言葉が途切れる。父は、考えながら話すとき、よくこういう間があった。私は昔からその間が嫌いで、説教の前ぶれだと思っていた。いま聞くと、ただ不器用なだけだったのだと分かる。
「毎日ちがう家に行って、ちがう人に頭下げて、荷物持って、時間に追われて……あれ、気ぃ張る仕事やろ。宏は平気な顔するけど、昔から、しんどいときほど笑うからな」
私は思わず口元を押さえた。笑っていないつもりだった。あの日の私は、たしかに笑っていたのだろう。自分を守るための、薄い笑いを。
「ようやっとる、って言いたかった。ほんとは、それだけやった」
父が咳をした。少し遠くで、波の音がしている。防波堤で録ったのかもしれない。風の入り方で分かる気がした。
「靴も、あんな減るまで履いて。ちゃんとしたの買え、も、あれ……言い方が違うな。金、ないなら言え。送る、って言えばよかった」
私は顔を伏せた。
あのとき玄関で、父は靴を見ていた。私は軽蔑だと思った。父は、足を痛めることを心配していたのだ。
人間は、自分が傷ついているとき、相手の言葉を刃物の形に聞く。父のせいだけではなかった。たぶん半分は、私の耳のせいだった。
録音の中で、父は少し笑った。乾いた、照れた笑いだった。
「まあ、いまさら言っても遅いけどな。こういうの、本人に言えって話や」
そこで一拍、間。
「もし、これ聞くことがあったら。……いや、聞かんほうがええかもしれんけど」
また、あの照れ笑い。
「海沿いは風が強い。手ぇ荒れる。手袋しろ。飯は食え。寝ろ。あと――」
父の声が、ほんの少しだけはっきりした。
「帰れるときは帰ってこい。お前の部屋、片づけんで置いとく」
最後は波の音だけがしばらく続き、そこで切れた。
居間の時計の秒針が、やけに大きく聞こえた。妹が鼻をすすった。私も泣いていたが、泣き方が下手で、息だけ変なふうに震えた。
「お父さんさ」
妹が言った。
「お兄ちゃんが帰る日、いつも魚買ってたよ」
私は顔を上げた。
「え?」
「連絡なくても。今週は来るかもって。来ないと、次の日、自分で食べてた」
私は笑ってしまった。泣いているのに笑うのは、父に似たのかもしれない。
「なんだよそれ」
「ね。言えばいいのにね」
言えばいいのに。
その一言が、家じゅうの壁にしみ込んでいる気がした。父にも、私にも、妹にも、言えなかったことがあった。
その晩、私は父の部屋で寝た。潮の匂いのする布団は重く、寝返りのたびに畳が小さく鳴った。柱の傷は、私と妹の背丈を測った跡だった。いちばん上に、父の字で「高1」とある。こんなものまで残していたのか、と、暗い中で天井を見ながら思った。
眠れないまま、録音をもう一度だけ聞いた。
今度は、父の言葉の間に、前ほど痛みがなかった。代わりに、悔しさがあった。どうして生きているうちに、一度でいいから聞けなかったのかという、どうにもならない悔しさ。
翌朝、まだ暗いうちに起きて、防波堤まで歩いた。
冬の海は青いというより、鈍い鉄の色だった。風が頬を切る。私はポケットの中で手を握り、すぐに思い出した。手袋、してこなかった。
「ほんと、そういうとこだよな」
誰に言うでもなくつぶやいて、少し笑った。波が、防波堤の下で白く砕ける。
私は海に向かって、謝るつもりだった。ごめん、とか、許してくれ、とか、そういう言葉を。
でも口を開いたら、先に出たのは別の言葉だった。
「今度、手袋するよ」
情けなくて、でも、それでよかった。
たぶん父は、そういうことを聞きたかった人だ。大きな反省や立派な言葉じゃなく、飯を食えとか、靴を替えろとか、そういう生活の返事を。
私は古い携帯をコートの内ポケットに入れた。地図も見られないし、仕事の連絡もできない。ただ父の声だけが入っている。役に立つかと言われたら、役には立たない。
けれど、役に立たないものに救われる朝もある。
車に戻る途中、コンビニに寄って、いちばん厚い軍手を買った。ついでに、おにぎりと味噌汁も買った。レジで温めを聞かれて、私はちゃんと「お願いします」と言えた。
軽バンに乗り込んで、妹に電話をかける。
「月に一回、帰る」
自分で言って、少しだけ足りない気がした。
「あと、命日だけじゃなくて、ふつうの日にも帰る。魚、食べに」
妹は少し黙ってから、笑った気配で言った。
「約束ね」
「うん。約束」
電話を切ると、東の空が白みはじめていた。町はまだ眠っていて、家々の窓は閉じたままなのに、どこかの台所から朝飯の匂いがした。味噌か、焼き魚か、よく分からない。けれど、父の家の匂いに似ていた。
私はエンジンをかけ、今日の便の伝票を見た。
届け先の名前を、ひとつずつ声に出して読む。いつもの朝だ。いつもの仕事だ。玄関先で頭を下げ、荷物を渡し、また次へ行く。派手じゃないし、褒められもしない。
でも、誰かの家にちゃんと届く。
言えなかった言葉みたいに、遅れてでも、届くものがある。
だから私は今日も運ぶ。
消えないものを、消えないまま。
その重さごと、受け取ってくれる人のところまで。


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