今日は珍しく、俺は母ちゃんを外に連れ出した。
「たまには飯でも、奢らせてよ」
そう言うと母ちゃんは、驚いたように目を丸くした。
それから、ちょっとだけ照れた。
行き先は、駅前の小さな食堂。
昔、まだ俺が子どもだった頃から通ってる店だ。
引き戸を開けると、湯気と味噌の匂いがふわっと鼻に刺さる。
その匂いだけで、なぜか胸の奥がほどけた。
母ちゃんはカウンターに座りながら、店内を見回した。
「変わってないねぇ」
懐かしさを噛みしめるように、声がやわらかい。
俺は、熱々の土鍋うどんを頼んだ。
母ちゃんは、味噌煮込みの小鍋を頼んだ。
昔から、ここの味噌が好きだったから。
「昔からここ、美味しいのよね」
母ちゃんは、しわくちゃの笑顔で言った。
その笑顔が、妙に可愛く見えて。
俺は目をそらした。
鍋が運ばれてくる。
湯気が立ち上って、眼鏡が曇る。
俺は勢いよくすすった。
母ちゃんも、ゆっくり箸を動かした。
一口ごとに、うんうんって頷きながら。
まるで、宝物を食べてるみたいに。
そんな顔をされると、こっちまで嬉しくなる。
俺もつられて笑ってしまって。
「なに笑ってんの」
母ちゃんも笑って。
その瞬間だけ、時間が巻き戻った気がした。
しばらくして。
俺は先に食べ終わった。
水を飲みながら、何となく母ちゃんの器を見た。
まだ、残ってる。
具が少し動いて、麺が見えた。
思ったより、ずっと残ってる。
母ちゃんは箸を止めて、俺を見た。
その目が、申し訳なさで揺れていた。
「ごめんね」
小さな声。
「母ちゃん、もうね」
「昔みたいに食べられないの」
「ごめんね」
また言う。
俺は、喉の奥がきゅっと縮んだ。
ごめんねって、そんな顔で言うことじゃないのに。
「そんなもん、しゃーねぇべ」
俺は、わざと雑に言った。
照れ隠しみたいに。
そして、母ちゃんの器を引き寄せた。
残った麺を、俺がすすった。
味噌の味が、やけに濃く感じた。
熱いのに、胸の奥のほうが冷えた。
思い出した。
俺がガキの頃。
調子に乗って大盛りを頼んで。
結局食べきれなくて。
「はい、母ちゃん食べて」
当たり前みたいに差し出してた。
母ちゃんは何も言わず、笑って食べてくれた。
“もったいないからね”
そう言って。
それが優しさだなんて、知らなかった。
今。
器の向こうにいる母ちゃんは、ずいぶん小さかった。
背中が丸くて。
手の甲は薄くて。
笑うとしわが、いくつも重なる。
いつの間に。
俺よりも小さくなったんだよ。
昔は、あんなに大きかったのに。
声も強くて。
怒ると怖くて。
それでも、いつも俺の前に立ってたのに。
その母ちゃんが。
今は、残した麺ひとつで
「ごめんね」と謝っている。
俺は、箸を置けなくなった。
胸の奥が、じわじわ痛い。
しわの数だけ、迷惑をかけた気がした。
しわの数だけ、心配させた気がした。
反抗した夜も。
連絡を返さなかった日も。
心配してると分かってたのに、
素っ気なくしたことも。
そういう全部が、器の底から浮かび上がってきた。
悔しかった。
情けなかった。
今さら気づく自分が、腹立たしかった。
母ちゃんは、俺の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
何でもないふりをしてるのに、見抜くんだ。
昔から。
俺は、笑ってごまかした。
「辛かっただけ」
嘘だ。
会計を済ませて、店を出た。
夜風が冷たくて。
母ちゃんは肩をすくめた。
俺は、無言で自分の上着を脱いで
母ちゃんの肩にかけた。
「いらないよ」
そう言いながら、母ちゃんはちゃんと着た。
その仕草が、妙に愛おしかった。
歩幅を合わせて歩く。
昔は、母ちゃんが俺に合わせてくれてた。
今は、俺が合わせる番だった。
母ちゃん。
こんな俺を、ここまで育ててくれて。
何度も、待ってくれて。
許してくれて。
ありがとう。
言葉にすると崩れそうで。
俺は結局、口には出せなかった。
でも、心の中では何度も言った。
湯気の匂いみたいに、あったかい「ありがとう」を。
そして決めた。
次は、俺が「ごめんね」を言わせない。
母ちゃんが笑って食べられる時間を、
これから少しずつ増やしていく。


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