夜勤明けの廊下は、消毒液と湿った布おむつの匂いで喉が痛い。ナースコールが鳴るたび、俺の胸の奥で何かが小さく割れる。
「すみません、今――」
言いかけた瞬間、奥の個室から“いつもと違う音”がした。
柵を叩く金属音じゃない。咳でもない。
息が詰まるような、短い音。
俺は足を止めたのに、体が動かなかった。
その一秒が、取り返しのつかないものになると知らずに。
扉の向こうで、誰かが俺の名前を呼んだ気がした。
蛍光灯が白すぎて、目が痛い。
廊下の空気は冷たく、消毒液のツンとした匂いに、夜の排泄処理の匂いが混ざっている。
遠くでワゴンの車輪が「コロ…」と鳴った。
俺は介護職、三十六歳。男。夜勤明け。
連勤で、肩甲骨のあたりがずっと重い。手袋の中の手はふやけて、指先の皮膚が薄くなったみたいだ。
ナースコールが鳴る。
「ピン、ポン――」
胸の奥が反射で固まる。
「おはようございます。大丈夫ですか?」
俺は声の高さだけを整える。心は整わない。
個室の前。
「佐伯さん、トイレですか?」
返事の代わりに、ベッド柵を叩く音が来る。
「カン、カン」
いつもの合図。
佐伯トキさん、九十二歳。口が悪い。要求が細かい。夜になると不安が強い。
「遅い!遅いったら!」
「すみません、今行きます」
言いながら、俺は心の中でだけ言う。
(またかよ)
「佐伯さん、立てますか。はい、手――」
「そんな触り方しないで。冷たい」
「……すみません」
手袋越しに握った手は、紙みたいに軽い。骨が当たる。
昼前、配薬の見守りの途中で、佐伯さんの引き出しからノートが滑り落ちた。
「ぱさ」
乾いた紙の音が、やけに大きい。
拾い上げると連絡ノートだった。表紙のビニールが擦れて白く曇っている。
中は、家族欄が空白のまま。
スタッフ記録だけが続いている。
思わず口が出た。
「……家族、来ないんだな」
佐伯さんが目だけ動かした。
「来るわけないだろ」
「そんな言い方」
「事実だよ」
「……」
俺はノートを閉じた。ビニールが「きゅ」と鳴った。
その瞬間、俺は勝手に決めた。
(拗ねてる。だからわがままが増える)
ラベルを貼った方が、仕事が楽になる。
そういう自分が嫌なのに、止められない。
数日後。夕食配膳。
湯気が立つ味噌汁の匂い、煮魚の匂い。
ワゴンの金属が「カチャン」と鳴る。
佐伯さんがコップを倒した。麦茶がテーブルを濡らし、床に落ちる「ぱしゃ」。
「ほら!見て!だから言ったのに!」
声が尖る。
俺は疲れていた。
シフト表が頭の中でぐちゃぐちゃになる。
「佐伯さん、わざとじゃないですよね?」
言い方が、つっけんどんだった。
佐伯さんは一瞬、口を閉じた。
それから、静かに言った。
「あなた、優しくないね」
その言葉が、喉の奥に刺さった。
俺は笑ってごまかした。
「そんなつもりじゃ……」
「つもりじゃなくても、刺さる」
その夜、急変が重なった。転倒、嘔吐、発熱。
ナースコールが重なって、音が重くなる。
「ピン、ポン」「ピン、ポン」
まるで追い立てるみたいに。
俺は走る。
靴底がワックスの床で「キュッ」と鳴る。
汗が首の後ろを流れて、制服が肌に張りつく。
佐伯さんの部屋の前を通った。
コールが鳴っている。
「ピン、ポン――」
俺はドアノブに手をかけた。冷たい金属。
でも、奥の別室で「転倒です!」と声が上がる。
「……すみません、今、手が離せなくて」
誰に言ったのか分からない言い訳を口にして、俺は走った。
しばらくして。
ナースステーションから叫び声。
「佐伯さん、呼吸浅い!」
俺は駆け戻った。
廊下の空気が急に薄い。
扉を開ける。
部屋は暗く、加湿器が「ぷしゅ…」と息を吐く。
佐伯さんはベッドの上で、小さく口を開けている。
いつもの「カン、カン」がない。
それが怖い。
「佐伯さん!聞こえますか!」
返事はない。
俺は手を握る。指先が冷たい。
「佐伯さん、お願い、目、開けて」
自分でも驚くほど弱い声だった。
看護師が来る。医師が来る。
モニターの電子音が、ひどく無機質だ。
俺は何か言おうとして、何も言えない。
夜が明けるころ、医師が静かに言った。
「……お看取りになります」
看護師のペンが記録用紙を擦る「サラサラ」という音が、現実を刺してくる。
俺の頭に、あのコールの音が戻る。
「ピン、ポン――」
俺が、聞こえないふりをした音。
昼、遺品整理の手伝いを頼まれた。
手袋を外すと、指がカサついている。
引き出しの中は、石鹸と古い布の匂いがした。
乾いたハンカチ。折り畳まれた靴下。
小さな写真。
そして連絡ノート。
「……これ、家族欄ずっと空だな」
俺が呟くと、同僚が肩をすくめた。
「一回も来てないって」
「……」
胸が痛むのに、痛みの理由がまだ分からない。
ノートの最後のページ。
薄い紙片が挟まっていた。
メモ用紙。端が折れて、指に引っかかる。
開いた瞬間、文字が目に飛び込む。
丸い字。佐伯さんの字だ。
――夜勤の若い人へ。
――あなたは急いでる。いつも顔が痛そう。
――私はわがままを言ってるんじゃない。
――「呼んだら来る」が、ここで生きる私の最後の安心。
――でも、あなたが苦しいなら、今日はいい。
――明日、あなたが笑えるなら、それでいい。
息が、喉で止まった。
俺は椅子に座り込む。椅子のビニールが「ぺた」と鳴る。
涙が出る前に、胸が先に壊れた。
(責めてない)
(許してる)
(俺を、見てた)
俺は勝手に“拗ねてる”と決めていた。
違う。
佐伯さんは、怖かったんだ。
「呼んだら来る」
その約束だけが、夜を越える手すりだった。
「……俺、行かなかった」
声に出した途端、膝が震えた。
同僚が言う。
「何?」
俺はメモを握りしめた。紙が湿る。
「俺、あのコール……」
言い切れない。
同僚が少しだけ顔を曇らせた。
「……忙しかったもんね」
その慰めが、俺には刃だった。
「忙しいとか、関係ない」
俺は首を振った。
「俺、意地張ってた」
「意地?」
「“またかよ”って顔してた。優しくないって言われて、ムカついて……」
「……」
「俺の方が子どもだった」
メモの最後の二行が、何度も胸を叩く。
――今日はいい。
――明日、あなたが笑えるなら。
“今日はいい”なんて、誰が言える。
自分が怖い夜に、呼び出しボタンを押しながら。
その夜、俺はロッカーの前で名札ケースを開けた。
プラスチックが「パチ」と鳴る。
メモを小さく折って入れる。紙の角が指に当たる。
次の夜勤。
廊下の匂いは同じだ。
消毒液。温め直したご飯。湿ったシーツ。
でも、音の聞こえ方が変わった。
「ピン、ポン――」
胸の奥が反射で固まる。
それでも、俺は口に出す。
「はい、今行きます」
言葉を先に置く。足がそれを追いかける。
別の入居者が言う。
「悪いね、何度も」
俺は首を振る。
「悪くないです。呼んでください」
自分の声が、少しだけ柔らかい。
ナースステーションで、同僚が笑う。
「最近、顔マシになったね」
「……佐伯さんに叱られたんだよ」
「もう叱れないじゃん」
「だから、俺が返事し続ける」
休憩室で、名札の中の紙を指で確かめる。
そこにある硬さが、俺の姿勢を正す。
“呼んだら来る”
それは技術でも、ルールでもなく、たぶん約束だ。
今日も俺は、押された呼び出しに、遅れた一回ぶんまで返事をする。


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