「祖母から届いた“最後のお弁当箱”」

商店街で佇む青年 泣ける話

商店街のアーケードに、揚げ油の甘い匂いが残っていた。なのに、祖母の惣菜屋の前だけが妙に冷たい。
シャッターは半分、赤提灯は消えたまま。ガラスに貼られた紙が風で「カサ…」と鳴る。
俺は配達の自転車を止められず、何度も通り過ぎた。忙しさを盾にして。
けれど今日、営業所の棚に置かれていた小さな荷物が、俺の足を止めた。差出人は、祖母の店だった。
備考欄の一行を見た瞬間、血の気が引いた。
――この一文、なんだよ。

商店街のアーケードは、昼間の熱をまだ抱いていた。
焼き鳥の煙が鼻の奥に絡み、魚屋の氷が溶ける「チリ…」という音が、どこかで鳴っている。
俺は配達員だ。自転車のペダルを踏むたび、足の裏にじんと振動が返ってくる。

「次、急ぎで頼むわ」
青果店の親父が、レジ袋を持ったまま言った。
「了解っす。……じゃ、行ってきます」

口だけは軽く返すくせに、心は重い。
祖母の店の前を通るときだけ、俺の喉は乾く。

惣菜屋は商店街の端にある。赤い提灯、ガラス越しの煮物、揚げ油の匂い。
昔は俺も、ランドセルのまま飛び込んだ。

「はるか先まで走らんでええ。ちゃんと噛んで食べなさい」
祖母はコロッケを紙に包みながら、いつもそう言った。紙の熱が掌にじんわり移って、幸福がそこにあった。

なのに俺は、止まらなくなった。

止まったら、何かが壊れそうで。
止まらなければ、何も感じないで済むと思って。

携帯が鳴る。祖母だと分かる着信音。
俺はヘルメットの顎紐を直すふりをして、出る。

「もしもし。今どこ?」
祖母の声は、油の音より小さい。
「今、無理。配達中」
「顔、見せんね」
「……忙しいんだって」

言い方が刺さったのは、言った瞬間に分かった。
祖母が一拍、息を吸う。
「ほうね。ほんなら、気いつけて」
「うん。……じゃ」

切った後、耳がジンとする。
自分の声が、やけに冷たかった。

次の信号が青になる。俺は漕ぐ。
「あと一件」「あと二件」
そう唱えるほど、心が薄くなる。

その日も同じだった――はずだった。

商店街の角で、いつものおしゃべりが止まっていた。
花屋の奥さんが、俺を見るなり目をそらす。
八百屋の兄ちゃんが小声で言う。

「……あんた、知らんの?」
「何が」
「おばあちゃんの店、今日閉まっとる」

心臓が一回、空振りした。
俺は笑ってごまかそうとする。
「定休日じゃないっすか」
「定休日、昨日やろ」

魚屋の氷が砕ける「ガン」という音が、胸の中で鳴った。

でも俺は、配達に戻った。
「今止まったら遅れる」
そう思った。
いや、そう“言い訳した”。

夕方、営業所の蛍光灯が白く眩しい。汗の乾いた制服が、背中に張り付く。
自分の棚に、小さな荷物が置かれていた。

紙袋を箱に入れたような、軽い荷物。
差出人欄――祖母の惣菜屋。

「……え?」
思わず声が漏れる。隣の同僚が振り向く。
「どうした?」
「いや、なんでも」

嘘だ。なんでもじゃない。

伝票をめくる指先が、紙のざらつきに引っかかる。
そして備考欄に、事務的じゃない手書きの一行。

――忙しいあんたへ。これ、最後のお弁当箱やけん。

息が止まった。
耳の奥で、血が引く音がした。

「最後……?」
声が自分のものじゃないみたいに震える。

俺は箱を抱えて、営業所の端のベンチに座り込んだ。
段ボールの角が肋に当たって痛い。痛いのは、そこじゃないのに。

緩衝材をどけると、古い弁当箱が出てきた。
木目がすり減って、角が丸くなっている。
蓋の裏に、薄い傷――俺が昔、フォークでつけたやつだ。

「……これ」

鼻の奥が熱くなる。揚げ油の匂いじゃない、古い木の匂いがふっと立った。
祖母の台所の匂いだ。

箱の中に、領収書が一枚。
但し書きの横にも、同じ手書き。

――怒ってないよ。会えんでも、あんたは働いとる。えらい。

俺はそこで、ようやく自分の誤解に気づいた。
祖母は、俺を責めていなかった。
責めていたのは、俺だ。祖母にじゃない。自分に。

「俺、何やってんだよ……」

言葉が床に落ちた。
拾えない。拾う指が、震えている。

携帯を握りしめ、祖母の番号を押す。
コールが鳴る。長い。
出ない。
またかける。
出ない。

三回目、短く震える声が聞こえた。

「……もしもし」
「ばあちゃん! 俺、今――」
「声、でかい」
「ごめん。ごめんって……」
「何を謝りよる」
「最後って書くなよ! びびるだろ!」
俺は笑いながら泣いていた。自分でも分かる。
祖母が小さく息を吐く。
「最後の“弁当箱”。あの箱、あんたのやろ」
「……」
「返しとくのが筋と思うて。あんた、よう働きよるけん」
「会いに行けてなくて」
「会えん日があっても、縁は切れん」
「でも俺、言い方が」
「刺さったよ」
祖母はあっさり言った。
俺の胸が縮む。
「……でもな」
少し間があって、祖母の声がやわらかくなる。
「忙しいのに電話取ってくれた。あれで、十分」
「十分じゃない」
「ほんなら、次で十分にしたらええ」

その一言が、胸に灯を置いた。
許された、というより――「やり直せる場所」をもらった。

その夜、俺は商店街へ向かった。
自転車を押して歩く。チェーンが「ジャリ…」と鳴る。
祖母の店は、やっぱり静かだった。

シャッターは半分下りている。
提灯は消えたまま。
ガラスに貼られた紙が、風で「カサ…」と鳴った。

「しばらく休みます」

たったそれだけ。
俺は呼び鈴を押した。
「ピンポーン」
反応はない。分かってるのに、もう一回押す。
「ばあちゃん、俺だよ」
言ってから、笑ってしまった。ここにいないのに。

翌日、病院の廊下は消毒液の匂いがした。
靴底がワックスに「キュッ」と鳴る。
祖母の病室の前で、俺は深呼吸した。

扉を開ける。
祖母はベッドの上で、眉を上げた。

「何しに来た」
「顔、見せに来た」
「遅い」
「……うん。遅かった」

祖母は笑いそうで笑わない。
「泣くなよ」
「泣かない」
「目、赤い」
「寝不足」
「嘘やな」
「……嘘」

沈黙が落ちる。
遠くで点滴が「ポタ…」と鳴った。

俺は弁当箱を抱えて言った。
「これ、返す」
祖母が目を細める。
「返すな」
「え?」
「使え。忙しいあんたが、ちゃんと食べるために」
「でも、ばあちゃんの――」
「うちは店のもん。あんたのは、あんたの」
祖母は指先で、ベッドの柵を軽く叩いた。
「それに、あんたが持っとったら、うちが毎日見守れる」
「……見守るって」
「言うとるやろ。急がんでええ」

喉の奥が詰まって、俺は頷くしかなかった。

医者が来て、祖母はしばらく店を休むことになった。
息子夫婦が週に数日、惣菜を並べるらしい。
祖母は「口だけ出す」と言って笑った。

帰り道、商店街の端から端まで、俺はゆっくり歩いた。
コロッケの油の匂いが、今日はなぜか優しい。
八百屋の兄ちゃんが声をかける。

「おばあちゃん、どうやった?」
「元気。……めっちゃ口悪い」
「それ元気やん」

俺も笑う。ちゃんと笑える。

次の出勤日。
配達の合間、弁当箱の蓋を開けた。
木の蓋が「すっ」と外れる感触が、懐かしい。

中身は、自分で詰めた。
コンビニの唐揚げ。卵焼き。梅干し。
でも、祖母の声が一緒に入っている気がした。

同僚が覗き込む。
「渋い弁当箱だな」
「家の、宝物」
「へえ」
「……俺、これでちゃんと食う」
「いいじゃん」

俺は伝票の束を取り出す。紙の匂い。インクの匂い。
備考欄を見て、思う。

言葉は、忙しさの隙間にも置ける。
傷つけることもできるし、救うこともできる。

配達は荷物を運ぶ仕事じゃない。
「気持ちが届く形」を、間に合わせる仕事だ。

俺は今日も、祖母の声が入った弁当箱を、胸の中でそっと配達している。

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