「アルバムの紙片」

紙片を見つめる青年 泣ける話

雪は音を殺すくせに、あの夜だけは違った。
工場の帰り、家の前で立ち尽くした俺の耳に、ストーブの上のやかんが「カタ…」と乾いた音を立てていた。父の部屋は暗い。テレビもついていない。
呼んでも返事がない。
嫌な予感を振り払うように、俺は押し入れを開けた。冷えた布の匂い、古い紙の匂い。
指先に触れたのは、布張りのアルバムだった。
ページをめくった瞬間、挟まっていた紙片が落ちた。
読んだ途端、膝が抜けた。
――これ、俺に向けた言葉だったのか。

雪国の冬は、音の輪郭を消す。
工場のサイレンも、トラックの排気音も、雪に吸われて丸くなる。残るのは、足元の「きゅっ、きゅっ」と、息の白さだけ。

俺は工場勤務だ。
ラインで鋼材を削り、検品して、箱に詰める。手袋の内側は粉っぽく、指先の感覚が薄くなる。
帰り道、鉄の匂いが鼻の奥に残っていると、決まって父を思い出す。

父も、この工場で働いていた。
子どもの頃、父の作業着は袖口が固く、触るとざらついた。
「くっつくな。汚れる」
そう言いながら、父は俺の頭を乱暴に撫でる。
「……くっつきたいのに」
俺が小声で言うと、父は聞こえないふりをした。

似ている。
俺と父は、似ている。
だから、ぶつかる。

工場に入った年、父は別部署に回っていた。顔を合わせるのは減ったが、町は狭い。
スーパーの入り口で、郵便局の前で、何度もすれ違う。

俺が会釈すると、父も軽く顎を引く。
それで終わり。
「話すことはない」
そう言い聞かせるたび、胸のどこかが冷えた。

きっかけは、褒め言葉だった。

飲み会で先輩が言った。
「お前、○○さんの息子だろ。親父さん、いい職人だったよな」
ビールの泡の匂いが甘ったるい。俺の喉は乾く。
「……ありがとうございます」
笑ったつもりが、頬が引きつった。

帰り道、雪が横殴りだった。眉毛に雪がつく。
家の玄関を開けると、ストーブの灯りが揺れて、灯油の匂いが鼻に入った。
父は居間でテレビを見ている。やかんが小さく「コト…」と鳴る。

俺は靴を脱ぎながら、わざと軽く言った。
「またさ、俺の話じゃなくて“親父の話”で盛り上がってた」
父は目線を動かさず、短く返す。
「そりゃ、良かったな」
その声が、妙に遠い。

「良くない」
俺は自分で驚くほど、きっぱり言った。
父がようやくこちらを見る。
「……何が」
「俺は俺だろ」
「知ってる」
「口で言うだけじゃん」
「お前が勝手に決めてる」
「何を」
「俺が、お前を影扱いしてるって」

父の言葉が正しすぎて、腹が立った。
正しいのは、いつだって苦い。

「どうせさ、俺が何やっても“まだまだ”って言うんだろ」
父の指がリモコンの上で止まる。
「言ったか」
「言ってないけど、そういう顔する」
「……顔は元からだ」
「そういうとこだよ!」
俺は立ち上がる。床が「ギッ」と鳴る。
「お前もな」
父の声が低くなる。
「意地張って、勝手に傷ついて、勝手に怒る。……俺に似てる」
「似たくない」
「似てる」
俺は扉を掴んで外に出た。
閉まる音が、雪に吸われて小さくなったのが、逆に怖かった。

それから会話は減った。
いや、俺が減らした。

父が「飯」と言えば、俺は「うん」。
父が「風呂」と言えば、俺は「あと」。
必要な言葉だけ。余計な言葉は、プライドが邪魔をした。

父も同じだった。
謝らない。追いかけない。
意地の張り合いみたいに、静かに時間が積もっていく。

春先、父が倒れた。
工場の機械音の中で受けた電話は、現実味が薄かった。

「ご家族の方ですか。すぐ来られますか」
「……はい」
受話器を握る手が、手袋越しでも冷たい。

病院の廊下は消毒液の匂いがした。靴音が乾いて響く。
病室の扉を開けると、父は布団の中で小さくなっていた。
あの背中が、折りたたまれている。

俺は言葉を探す。見つからない。
結局、天気の話を投げる。
「……雪、まだ降ってる」
父が窓の外を見る。
「うん」
それだけ。

沈黙の間に、点滴が「ポタ…」と落ちる。
返事のない会話って、こういうことだ。
言いたいことは山ほどあるのに、口から出るのは薄い言葉ばかり。

父は回復したが、自宅療養になった。
俺はスーパーで買い物をして、必要なものだけ置いて帰る。
「ありがとう」も「ごめん」も、舌の上で凍ったまま。

ある夜、父が押し入れを指さした。
「……あれ、出せ」
「どれ」
「アルバム。古いやつ」
声がかすれているのに、命令口調は変わらない。
懐かしくて、腹が立つ。

押し入れの奥は冷えた布の匂いがした。指先に当たる段ボールが湿っている。
布張りのアルバムは、触るとひやりとした。
表紙の角が剥げて、指にささくれが引っかかる。

「……重いな」
俺が言うと、父が小さく鼻で笑う。
「思い出は重い」
「うまいこと言うじゃん」
「たまにな」

ページをめくると、紙が「ぱり」と鳴った。
若い父。若い母。俺が赤ん坊で、父の腕の中で丸い。
父の作業着じゃない服が、妙に新鮮だ。

「これ、俺?」
「そうだ」
「父さん、笑ってる」
「うるさい」
父は目をそらした。照れたのが分かる。
その照れが、俺の胸を締める。

途中のページで、何かがふわりと落ちた。
小さな紙片。レシートみたいに薄い。
拾い上げた瞬間、指先に父の筆圧が伝わるようで、ぞくっとした。

乱れた字。父の字だ。伝票に書く字と同じ。

――お前が俺の影になる必要はない。
――影ができるのは、光の前に立ってるからだ。
――お前は、お前の場所で光れ。

視界が滲んだ。
俺は息を吸って、吐けなくなった。

「……これ、何」
声が、情けないほど震える。
父は天井を見たまま言う。
「挟んどいた」
「いつ」
「お前が工場入った年」
「……じゃあ、あの頃から」
「言えなかった」
「なんで」
父が口を結ぶ。やかんが「コト…」と鳴る。
「……格好つけた」
「は?」
「格好つけたまま、言うタイミングを、逃した」
「それ、最悪」
俺が言うと、父が小さく笑った。
「最悪だな」
「なんで渡さなかったんだよ」
「渡したら、泣くだろ」
「泣くわ」
「ほら」
父の“ほら”が、妙に優しい。

俺は紙片を握りしめた。紙の端が掌に食い込む。
「俺、ずっと……父さんが俺を否定してると思ってた」
父はすぐに返事をしない。
少し間があって、低く言った。
「否定してたのは、俺のほうだ」
「え?」
「俺が若い頃、上の連中に散々言われた。“まだまだ”って。……だから口癖みたいになった」
父は喉を鳴らす。
「お前にだけは、言いたくなかった」
胸が痛い。
父の秘密は、優しさの裏返しだった。

俺は言う。やっと言う。
「ごめん。勝手に決めつけて、勝手に逃げた」
父は目を閉じたまま、鼻で息を吐く。
「……お前も格好つけだ」
「親子だな」
「似てるって言ったろ」
「似たくないって言った」
「今は?」
父がほんの少しだけ、こちらを向いた。
俺は、紙片を胸に当てる。
「……似ててもいい」

父の手が布団の上で動いた。
握れと言っているみたいに。

俺は父の手を握った。骨ばっているのに、意外と温かい。
その温度が、俺の意地を静かに溶かす。
許しって、抱きしめることじゃない。
ただ、手を離さないことかもしれない。

「父さん」
「なんだ」
「明日、工場の帰りに寄る。缶コーヒー買ってくる」
「ブラックはやめろ」
「甘いやつな」
「……頼む」
返事は短い。だけど、ちゃんと返事だ。

翌朝、工場のラインに立つ。
機械の唸りが腹に響き、鉄の匂いが鼻に刺さる。
俺は紙片の言葉を思い出す。

“光れ。”

命令じゃない。
「お前はお前でいい」という、父なりの許しだ。
そして俺は、「父の不器用さ」まで継いで生きる。
ただし、同じ間違いは繰り返さない。

夜、玄関で靴を揃えながら声をかけた。
「帰った」
居間から返事はない。テレビの音と、やかんの小さな鳴き声だけ。
それでも俺は続ける。
「今日も、ちゃんと働いてきた」
「……」
返事はない。
でも、居間のストーブが「ゴゥ」と一段強く鳴った気がした。

返事のないままでも、俺は父に話しかけ続ける。

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