「“ごめんね”が胸に刺さった夜、僕は初めて親になりかけた」

母と食事をとる息子 泣ける話

“ごめんね”が胸に刺さった夜

第1回:誘う理由は言えないまま、暖簾の代わりに扉を押した

その日は、仕事帰りの足取りがいつもと違った。

何がどう、というほどのことじゃない。

ただ、母に電話をかけたくなった。

「飯でも行く?」

自分でも驚くほど、あっさり言えた。

母は少し間があって、明るい声で「いいねえ」と笑った。

行き先は、駅前の小さな洋食屋だった。

昔、誕生日でもないのに「今日はご褒美」と言って連れて行ってくれた店だ。

木の扉を押すと、バターの香りと、鉄板の音が胸に飛び込んできた。

カウンターの奥で、シェフがフライパンを振っている。

店内は明るすぎない。

落ち着いた灯りが、会話の間をやさしく埋めてくれる。

母は席に座ると、ゆっくり店を見回した。

「ここ、変わらないね」

そう言って、目尻をくしゃっとさせた。

その“くしゃっ”が、昔より少し深い。

私はそれを見て、なぜだか背筋を伸ばした。

メニューを開いて、私はビーフシチューを頼んだ。

肉がごろっと入った、パン付きのやつ。

母はハンバーグを頼んだ。

小さめのライスを添えて。

「昔、ここでハンバーグ食べたらさ、すごく嬉しかったんだよ」

母は、照れたみたいに言った。

私は「へえ」と返しながら、内心は落ち着かなかった。

嬉しい話なのに。

胸の奥の、言葉にならない場所がざわざわした。

料理が運ばれてきた。

皿から立つ湯気が、ふたりの顔のあいだをふわっと漂う。

スプーンを入れると、シチューは濃く、静かに揺れた。

母はハンバーグを切り分けて、ひと口。

それから、子どもみたいに目を細めた。

「おいしい」

そのひと言が、妙にまっすぐで。

私はつられて笑ってしまった。

食べることに夢中になる母を見るのは、いつぶりだろう。

その顔は、疲れも心配も見えない。

ただ“今”を味わっていた。

私はふと、思った。

こういう時間を、私はずいぶん先送りにしてきたんだな。

第2回:皿の上に残ったものが、時間の重さだった

私は先に食べ終わった。

パンで最後のソースまでぬぐって、皿がきれいになった。

それが少し誇らしくて、でも、すぐにその気持ちは消えた。

目線を上げたとき、母の皿が見えたからだ。

ハンバーグが、半分残っていた。

付け合わせのにんじんも、ブロッコリーも、手つかずのまま。

母はフォークを置いて、肩をすぼめた。

そしてこちらを見て、困ったように笑った。

「ごめんね。

最近、少しでお腹いっぱいになっちゃうの。

もったいないよね。

ごめんね。」

その“ごめんね”が、刺さった。

母が謝る必要なんてない。

食べきれないことを、母はずっと謝りながら生きてきたんだろうか。

誰かに迷惑をかけないように。

誰かの機嫌を損ねないように。

私は、咄嗟に平気な顔をした。

「いいよ、俺が食べる」

そう言って、母の皿を自分のほうへ寄せた。

冷めかけた肉を口に運ぶ。

味はちゃんとおいしいのに、喉の奥で変な重さになった。

昔は逆だった。

私が欲張って頼んで、残して。

母が「しょうがないなあ」と笑いながら片づけてくれた。

あのころの母は、よく食べて、よく笑って、よく歩いた。

背中も大きかった。

声も大きかった。

家の中で、母の足音がすると安心した。

なのに今、母は小さい。

椅子に座る肩が丸くて、手首が細くて。

目尻のシワが増えている。

私は、気づいてしまった。

“私が大人になった”というより、

“母が年を重ねた”のを、見てしまった。

皿の上に残った半分は、

母がこれまで抱えてきた疲れの欠片みたいだった。

私は無言で食べ続けた。

泣きそうだったからだ。

ここで涙を見せたら、母がまた謝る。

そんな気がした。

だから私は、ただ黙って噛んだ。

噛んで、飲み込んで、笑ってみせた。

母は安心したように笑って、言った。

「ありがとね」

その言葉の軽さが、かえって重かった。

私は心の中で、別の言葉を言った。

母さん。

今まで、ありがとう。

そして、ごめん。

私は、まだ“立派”なんかじゃない。

でも、せめて。

あなたの“ごめんね”を、これ以上増やさない人間になる。

帰り道、夜風が冷たかった。

母は「寒いね」と言って、私の腕に少しだけ触れた。

その手の軽さが、胸に残った。

私はそこで、ようやく決めた。

これからは、誘う理由なんていらない。

会いたいから会う。

食べたいから一緒に食べる。

そして、遅れてきたぶん、ちゃんと返していく。

湯気の向こうで小さくなった母を、

もう見て見ぬふりはしない。

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