【泣ける短編】花屋店員の私が父の写真の裏で知った、本当の気持ち

夕暮れの花屋と夢幻の街 家族の話

商店街の朝は、花の匂いより先に水の音がする。

 店先のバケツを洗う音。

 ホースの先から、まだ冷たい水が勢いよく飛び出して、アスファルトを濡らす音。

 切り戻した茎の青い匂い。

 私は毎朝、その音と匂いのあいだで、ああ今日も花は黙って売られていくのだ、と思う。

 花というのは、少し気の毒だ。

 祝われる席にも、謝る場にも、別れにも、たいてい駆り出されるくせに、自分では何ひとつ言えない。

 きれいだね、と言われて終わる。

 便利な沈黙である。

 私も、そういう沈黙にずいぶん助けられてきた。

 父が亡くなって三年になる。

 商店街の外れにあるこの花屋は、もともと父の店だった。

 いまは私が店番をして、母は奥で伝票をまとめたり、仏花の束を作ったりしている。

 私は子どものころから花屋の娘で、店の隅で宿題をし、カーネーションの棘を抜く手伝いをし、売れ残ったガーベラを家に持ち帰っては、台所のコップに挿していた。

 それでも、店を継ぐつもりはなかった。

 花は好きだったが、父の仕事のしかたが好きではなかったからだ。

 父は無口な人だった。

 無口なくせに、不意に言葉が足りない。

 誕生日にケーキを買ってきても、「半額やった」としか言わない。

 運動会に来ても、「暑いな」で終わる。

 高校の卒業式の日も、「まあ、よかったな」と言っただけだった。

 私はそういう父を、長いこと、自分に関心の薄い人間だと思っていた。

 母は「お父さんはそういう人やから」と言ったが、それは説明ではなく、半分は諦めだった。

 人は説明されないまま許されると、子どもはたいがい傷つく。

 いちばん覚えているのは、高校二年の文化祭の日のことだ。

 私はクラスの演劇で主役をやることになっていて、父には珍しく「見に来て」と言った。

 言った、というより、ほとんど挑発だったのかもしれない。

 どうせ来ないだろうと思っていた。

 店が忙しいから、とか、配達があるから、とか、そういう理由で、父は来ないだろうと。

 ところが父は来た。

 後ろの席に、いつもの作業着のまま座っていた。

 そのことに、私は驚いたし、少しだけうれしかった。

 でも、それを顔に出すのは負けた気がして、私は舞台の袖でわざと見ないふりをした。

 劇が終わって、クラスメイトが写真を撮り合い、先生たちが笑っているなか、私は校門の外で父を見つけた。

 写真を撮ってくれていたらしい。

「どうやった?」

 私がそう聞くと、父は少し考えてから言った。

「写真、ぶれとった」

 それだけだった。

 私はその場で、顔が熱くなるのを感じた。

 演技のことでも、台詞のことでも、頑張ったな、でもなく、写真がぶれていた、である。

 私は怒って、そのまま父を置いて帰った。

 家に帰ってからも泣いた。

 母に「お父さん、何しに来たん」と言った。

 父はその晩、何も言わなかった。

 翌朝、いつも通り市場へ仕入れに行った。

 私もそのあと、何も聞かなかった。

 聞かないまま、大人になった。

 人は、大きな喧嘩より、小さな失望のほうを長く持つ。

 高校を出て、私は一度だけ県外で働いた。

 雑貨店の仕事だった。

 花と似て、きれいなものを売る仕事だったが、花よりはずっと気楽だった。

 枯れないし、季節の終わりに捨てられて泣きそうになることもない。

 このまま戻らなくて済むかもしれない、と、少しだけ思った。

 けれど祖母の介護と、父の腰痛と、母ひとりでは店が回らないことと、そういういくつかの事情が重なって、二十六で帰ってきた。

 帰ると決めた日、父は電話口で「そうか」と言っただけだった。

 私はその「そうか」に、歓迎も、申し訳なさも、感謝も入っていない気がして、また少し傷ついた。

 でも、戻ってみると、父は私の作業台をいつの間にか奥から窓際へ移していた。

 冬でも手元が明るい場所だった。

 そういうことを、父は言わずにする人だったのだと、今ならわかる。

 あのころの私は、まだわからなかったけれど。

 私は店の仕事を覚え、父は黙って仕入れをし、二人で花を束ねた。

 朝、菊の葉を落とす手つきが早いこととか、ラッピングの角をきれいに出すこととか、胡蝶蘭の向きを決める一瞬に迷いがないこととか、そういう仕事のことだけは、父はよく知っていた。

 でも、仕事のこと以外は、やっぱりあまり話さなかった。

 私が彼氏と別れたときも、「そうか」と言っただけだった。

 熱を出して寝込んだときも、「薬、そこ置いとく」で終わった。

 私は三十を過ぎてもまだ、父の言葉の少なさを、愛情の少なさと勘違いしていた。

 父が倒れたのは、初夏の午後だった。

 配達先から戻らないので電話をしたら、知らない人が出て、店の近くの交差点でうずくまっていたと言った。

 脳の病気だった。

 入院してから、父は前よりさらに話さなくなった。

 いや、話せなくなったというべきかもしれない。

 言葉が出にくくなり、短い返事しかできなかった。

 私は見舞いに行ったが、何を話していいかわからなかった。

 花のことなら話せたかもしれない。

 でも病室で花の話をするのは、どこか残酷な気がした。

 だから私は、「店、大丈夫やよ」とか、「今日は暑いね」とか、そういうことしか言えなかった。

 父はうなずいたり、目を閉じたりした。

 ある日、私が新しく仕入れた芍薬の話をすると、父はかすれた声で「開くの、早いぞ」と言った。

 それだけだった。

 でも、その忠告は正しかった。

 翌朝には本当に花びらがほどけて、店先でひときわ大きく咲いていた。

 私はその花を見ながら、こんなときまで仕事のことしか言えないのか、と腹が立った。

 ごめんでも、ありがとうでもなく、最後までそんなふうに黙っているのか、と。

 父が亡くなったのは、その年の梅雨明け前だった。

 葬儀のあと、店は数日休んだ。

 花屋の家の葬式は、少し変だ。

 売り物だった花と、供える花の境目が曖昧になる。

 白い百合の匂いが店にも家にも満ちて、どこを歩いても死がやさしく飾られている。

 私はそのことがたまらなく嫌だった。

 死がきれいになると、怒る場所がなくなるからだ。

 四十九日が過ぎて、ようやく店の二階を片づける気になった。

 父の机は、古い伝票と輪ゴムと、乾いたボールペンでいっぱいだった。

 几帳面とも雑とも言えない、不思議な散らかり方だった。

 引き出しの奥から、小さな紙箱が出てきたのは、そのときだった。

 白い、菓子箱みたいなもので、中に写真が何枚も入っていた。

 家族の写真だった。

 私が七五三の着物を着ている写真。

 小学校の入学式。

 中学の部活の大会。

 母と三人で商店街の福引きを引いている写真。

 私が店先で初めて花束を包んでいる写真。

 どれも、私が知らないあいだに父が持っていたものばかりだった。

 父はアルバムを作る人ではなかったから、少し意外だった。

 何気なく一枚ずつ裏返して、私は手を止めた。

 写真の裏に、鉛筆で短い言葉が書いてあったのだ。

 最初の一枚には、こうあった。

 「はじめて店のバラを自分で包んだ日。手がふるえとった。」

 次の一枚。

 「中学の朝練で、まだ眠そうやった。」

 次の一枚。

 「失恋した日。何も聞かんかった。」

 私は座り込んだ。

 写真はどれも、私の知らない父の字でいっぱいだった。

 知らない父の字、というのは変だが、そうとしか言いようがなかった。

 店の仕入れ帳に書く無愛想な字ではなく、少しだけ丸くて、どこか慎重な字だった。

 そして箱のいちばん下に、高校の文化祭の日の写真があった。

 舞台袖から撮ったのか、たしかに少しぶれていた。

 白いライトの中で、私が口を開けて台詞を言っている。

 その裏に、こう書いてあった。

 「ぶれた。ようけ泣きそうになったからやと思う。ようやった。うちの花より目立っとった。」

 私はその場で息が止まった。

 ぶれた、のあとに、そんな続きがあったなんて知らなかった。

 父があの日、帰り道で言いかけたのは、写真の失敗のことではなく、たぶん、泣きそうだったという、自分でも持て余す感情のことだったのだ。

 でも父は、そこまで言えなかった。

 言えないから、いちばん外側の言葉だけを私に渡した。

 私はそれを、棘のついたまま受け取って、二十年近く握りしめていたのである。

 笑ってしまうほど、不器用な親子だった。

 私は写真を抱えたまま、父の机の前で泣いた。

 声を上げるというより、長いこと胸につかえていた何かが、ようやく崩れた感じだった。

 記憶違いというのは、恐ろしい。

 ひとつの場面を、自分の傷のかたちに合わせて何年も保存してしまう。

 しかも当人が死んでから、その記憶のほうが間違っていたと知るのだ。

 ずるいと思った。

 そんな大事なこと、表で言ってくれればよかったのに。

 写真の裏なんかに書かないで、あのとき一言、「ようやった」と言ってくれれば、それで済んだのに。

 でもたぶん、言えない人だったのだ。

 言えないかわりに、書いた。

 書いて、しまって、持っていた。

 父にとって言葉は、口から出すものではなく、隠して残すものだったのかもしれない。

 その夜、私は母に写真のことを話した。

 母は静かに聞いて、「あの人らしいねえ」と言った。

「らしい、で済む?」

「済まんけど、らしいわ」

 母は少し笑って、それから言った。

「お父さん、あんたの写真だけ、よう持っとったよ」

「なんで言ってくれんかったん」

「言うたら、あんた照れるやろ」

 そう言われて、私は泣きながら笑った。

 照れるどころか、たぶん腹を立てていた。

 親に見られているのは、子どもにとって案外むず痒くて、ありがたい。

 そのくせ、見られていないと思い込むと、ひどく寂しい。

 人間は勝手だ。

 翌朝、店を開ける前に、私は父の写真を一枚、レジの内側に貼った。

 文化祭の、あの少しぶれた写真だった。

 表ではなく、裏の言葉が見えるように貼った。

 「ようやった。うちの花より目立っとった。」

 客からは見えない位置だった。

 私だけが見える。

 朝、水揚げをしながらその字を見ると、妙に背筋が伸びる。

 私はいまも、花の名まえを父ほど知らない。

 仕入れの勘も、値の読み方も、正直まだかなわない。

 でも、店先で花を選ぶ人の顔を見ることは、少しずつ覚えてきた。

 母の日に迷う中学生。

 退院祝いの色を悩む夫婦。

 喧嘩のあとみたいな顔で、赤い花を一本だけ買う男の人。

 花は黙っているが、選ぶ人のほうは案外しゃべっている。

 父もきっと、そういう顔をずっと見ていたのだろう。

 そして私の顔も、言葉にならないまま見ていた。

 夕方、店先の百合を整えながら、私はふと思う。

 和解というのは、向かい合ってきちんと話し合うことばかりではないのかもしれない。

 もういない人の、言えなかった言葉を、遅れて受け取ること。

 その受け取り損ねていた時間ごと、そっと抱き直すこと。

 それでも間に合うと知ること。

 たぶん、それも和解だ。

 商店街の夕方は、朝より少しだけやさしい。

 八百屋が値札を下げ、豆腐屋の明かりが灯り、うちの店先の花にも橙色が差す。

 私は最後に、売れ残った白いトルコキキョウを少しだけ束ねた。

 父の写真の前に置くためである。

「今日は、よう売れたよ」

 そう言ってみる。

 返事はない。

 けれど、前ほど腹は立たない。

 写真の裏に書かれたあの字が、いまさらみたいに、ゆっくり私を許しているからだ。

 そして、私もたぶん、父を許しはじめている。

 花はやっぱり何も言わない。

 でも、言えなかったことまで包んでしまうから、ずるい。

 私は店の明かりを落とす前に、もう一度だけ写真の裏を見る。

 ようやった。

 たったそれだけの不器用な言葉が、今日の私には、ちゃんと届く。

 だから明日も、私はこの店で花を売るだろう。

 黙ったまま、誰かの気持ちを手渡す仕事を。

 父が下手なりに愛した、そのやり方の続きを。

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