私は、商店街の花屋で働いている。
花屋、と言えば聞こえはいい。
朝露のついた薔薇を束ね、季節の花をきれいに並べ、誰かの記念日に少しだけ色を添える仕事。
けれど実際は、水の入ったバケツを運び、茎を切り、萎れた葉を捨て、冬は指先を赤くしながら店先に立つ。
花は美しい。
でも、美しいものほど、裏側ではよく傷む。
私はそれを、毎日見ていた。
店は、古い商店街の真ん中にあった。
隣は閉まった靴屋で、向かいは八百屋だった。
アーケードの屋根はところどころ曇り、雨の日には古い鉄の匂いがした。
それでも午前中になると、誰かが仏壇の花を買いに来る。
夕方には、制服姿の子が小さな花束を選ぶ。
花を買う人は、たいてい少しだけ言葉に困っている。
おめでとう。
ごめんね。
ありがとう。
さようなら。
そういう言葉の代わりに、人は花を持っていく。
私は、その代わりを包む仕事をしていた。
母は、便箋を集める人だった。
花柄の便箋。
薄い藤色の便箋。
隅に小さなすみれが描かれた便箋。
引き出しの中には、いつも何種類もの便箋が入っていた。
花を買った人に、母は時々それを一枚添えた。
「言葉があるなら、書いてあげるといいですよ」
そう言って。
客が、
「うまく書けないんです」
と困った顔をすると、母は笑った。
「うまくなくていいんです。花も、まっすぐなものばかりじゃないですから」
私はその言い方が苦手だった。
母は昔から、肝心なことを少し遠くへ置く人だった。
知りたいことほど、やさしい言葉で包んでしまう。
父のこともそうだった。
父は私が小さい頃に家を出た。
母はその理由を、ほとんど話さなかった。
「大人には、うまく言えないことがあるの」
それが母の答えだった。
私は、その言葉を許せなかった。
うまく言えない、で済まされる子どものほうは、どうすればよかったのだろう。
父の日が近づくたび、学校で似顔絵を描かされるたび、私は空白の顔を描いた。
母はそれを見ても、何も言わなかった。
ただ、夕飯に私の好きな卵焼きを少し甘くした。
私は、それが余計に嫌だった。
説明の代わりにやさしくされると、怒る場所がなくなる。
だから私は、母を少し恨んだ。
大人になって、私は母の花屋を手伝うようになった。
本当は別の仕事をしていた。
でも続かなかった。
人と話すのが苦手で、笑うタイミングも下手で、何をしても自分だけが薄い紙でできているような気がした。
母は理由を聞かなかった。
「明日、水替え手伝って」
それだけ言った。
私はその優しさに甘えながら、甘えている自分が嫌で、また母に冷たくした。
ある日の夕方、制服の男の子が店に来た。
小さな花束を作ってほしいと言う。
母が、
「どんな感じにしましょう」
と聞くと、男の子は困ったように俯いた。
「謝る感じで」
それだけ言った。
私は笑いそうになった。
謝る感じの花なんて、あるのだろうか。
母は笑わなかった。
白いガーベラと、薄紫のスターチスを選び、最後にすみれの便箋を一枚添えた。
「言葉が出なかったら、名前だけでもいいの」
母はそう言った。
男の子は花束を抱えて、何度も頭を下げて帰っていった。
私はその後で言った。
「便箋なんか渡しても、重くない?」
母は花の切れ端を片づけながら言った。
「書けない人ほど、紙が一枚あると助かることもあるのよ」
「お母さんは、書けなかったくせに」
言った瞬間、店の空気が変わった。
母の手が止まった。
私は分かっていた。
父のことを言っているのだと。
母も、分かっていた。
でも母は怒らなかった。
「そうね」
ただ、それだけだった。
その「そうね」が、私はいちばん嫌いだった。
母の中に入れない扉を、目の前で静かに閉められる気がしたからだ。
ある冬の日、店の奥の引き出しで、古い便箋の束を見つけた。
藤色のリボンで結ばれていた。
宛名はなかった。
ただ、一枚目に私の名前が書いてあった。
私は胸がざわついた。
読んではいけないと思った。
でも、読まなければならない気もした。
便箋を開くと、母の字があった。
「あなたに、秘密にしていたことがあります」
その一文で、手が震えた。
やっぱり父のことだと思った。
母は何かを隠していた。
私はその秘密のせいで、ずっと半分だけの家族を生きてきたのだ。
怒りが、先に来た。
悲しみよりも、いつも怒りのほうが早い。
私はその便箋を持ったまま、母に言った。
「これ、何」
母は花の水を替えていた。
私の手元を見ると、顔色が変わった。
「まだ読まないで」
その言葉で、私は余計に傷ついた。
まだ。
母には、私に秘密を渡す時期まで決める権利があるのか。
「いつまで隠すの」
母は黙った。
「お父さんのことでしょ。どうせ、私が知らないことがあるんでしょ」
母の手から、花切りばさみが小さく鳴った。
「ごめんね」
謝られた瞬間、私は泣きそうになった。
だから怒った。
「ごめんって言えば済むと思ってるの」
母は何も言わなかった。
店先では、白いストックが甘い匂いを放っていた。
その匂いが、やけに苦しかった。
それからしばらく、私は母と必要なことしか話さなかった。
花束の注文。
配達時間。
釣り銭。
仕入れ。
母も、無理に話しかけてはこなかった。
ただ時々、店の隅で便箋を選んでいた。
その姿を見るたびに、私は思った。
誰に書いているのだろう。
私に言えない相手が、まだいるのだろうか。
春の前、母は倒れた。
店の裏で、チューリップの箱を開けているときだった。
病院の白いベッドに横たわる母は、花屋の母ではなく、ただ細い一人の人に見えた。
医師の説明は、遠くで聞こえた。
病気は、思っていたより進んでいた。
母はずっと隠していた。
また秘密だった。
私はベッドの横で言った。
「なんで言わなかったの」
母は少し笑った。
「あなた、花を捨てるときも謝るでしょう」
意味が分からなかった。
母は続けた。
「私のことまで、自分のせいにすると思ったから」
私は黙った。
図星だった。
私はいつも、誰かの悲しみを拾っては、自分の胸にしまい込む。
しまい込んだあとで、重いと怒る。
ずるい人間だった。
母は、枕元の小さな紙袋を指さした。
中には、すみれの便箋が数枚入っていた。
「お父さんにも、手紙を書いたの」
母はそう言った。
私は息を止めた。
「出したの?」
母は首を横に振った。
「一通だけ、出せなかった」
「どうして」
「許す言葉を書いたつもりだったのに、読み返したら、責める言葉ばかりだった」
母は目を閉じた。
「私も、うまく書けなかったの」
そのとき初めて、母もまた便箋の前で立ち尽くしていた人なのだと分かった。
私だけが待たされていたのではなかった。
母も、自分の言葉を待っていた。
母は数日後、静かに亡くなった。
最期に、
「便箋、読んでね」
と言った。
それが、母の最後の頼みだった。
葬儀のあと、私は花屋に戻った。
店先の花は、商店街の人たちが水を替えてくれていた。
白いラナンキュラスが少し首を傾げている。
母が好きだった花だった。
私は奥の引き出しを開けた。
藤色のリボンの便箋をほどいた。
手紙は、何通もあった。
一通目には、父のことが書いてあった。
「お父さんは、あなたを捨てたのではありません。病気で、長く生きられないことを知って、私たちから離れました。弱い人でした。でも、あなたを愛していなかったわけではありません」
私は息を止めた。
「私は、その弱さを許せませんでした。あなたには、あの人を憎ませたくなくて、でも愛させることもできなくて、何も言えませんでした」
便箋の上に涙が落ちた。
母もまた、言えなかった人だった。
秘密を守っていたのではない。
言葉にできないものの前で、ずっと立ち尽くしていたのだ。
二通目には、父に出せなかった手紙のことが書いてあった。
「私は、あの人に『あなたを許します』と書こうとして、何度も失敗しました。本当は許したかったのではなく、許せない自分を終わらせたかったのだと思います」
その一文を読んで、私は母を少し近く感じた。
母は聖人ではなかった。
やさしいだけの人でもなかった。
怒りも、弱さも、みっともなさも抱えたまま、花を包んでいた。
それを知ったとき、私は初めて母を本当に愛せる気がした。
三通目には、花の名前が並んでいた。
「あなたが初めて店で包んだ花束は、少し曲がっていました。でも、お客さんは嬉しそうでした」
「あなたは萎れた花を捨てるとき、必ず小さく謝ります。そういうところが、私は心配で、好きでした」
四通目は、店のことだった。
「もし私がいなくなったら、店を閉めてもいいです。続けてもいいです。ただ、祈るように花を包むことだけは、忘れないでください」
最後の便箋には、すみれの絵があった。
そこに、こう書かれていた。
「あなたの人生に、誰にも言えない寂しさが咲く日がありますように。咲けば、枯れることもできます。枯れたあとには、また別の花が来ます」
私は、声を出さずに泣いた。
花屋の奥で泣くと、花の匂いが涙に混ざる。
それは、悲しいのに、少しだけ救われる匂いだった。
母は秘密を残したのではなかった。
祈りを残したのだ。
私が父を憎みすぎないように。
母を恨みすぎないように。
そして、自分自身を責めすぎないように。
それから私は、店を続けている。
母のように上手には笑えない。
花束もまだ少し曲がる。
でも、便箋を一種類だけ店に置くようになった。
小さなすみれの便箋だ。
花を買う人が、言葉に困っているように見えたとき、
「よかったら、一枚どうぞ」
と言う。
誰かがそれに、ありがとうを書くかもしれない。
ごめんねを書くかもしれない。
あるいは、何も書けずにしまい込むかもしれない。
それでもいい。
書けない言葉にも、居場所があっていい。
あの制服の男の子は、春にもう一度店へ来た。
「前に便箋、もらったんですけど」
彼は少し照れた顔で言った。
「書けました?」
私が聞くと、彼は首を横に振った。
「名前だけ。でも、渡せました」
私は花を包む手を止めそうになった。
名前だけ。
それでよかったのだと思った。
言葉は、長ければ届くものではない。
短くても、震えていても、そこに座れる紙があれば、人は少しだけ前に進める。
商店街の夕方、アーケードの隙間から細い光が入る。
私は白い花を包み、リボンを結ぶ。
店の引き出しには、母の便箋がまだ残っている。
時々、開いて読む。
「祈るように花を包むこと」
その一文を読むたびに、私は少しだけ背中を伸ばす。
花はいつか枯れる。
手紙も、いつか黄ばむ。
秘密も、いつか形を失う。
けれど祈りだけは、ときどき、花の匂いをして戻ってくる。
今日も私は、すみれの便箋を一枚、レジの横に置く。
誰かの言えなかった本音が、そこにそっと座れるように。
家族をテーマにした泣ける短編をもっと読む
母・父・祖母との絆、言えなかった感謝、家族とのすれ違いを描いた短編をまとめています。


コメント