春の終わり、母は私に小さなノートを手渡した。
表紙には丸い字で、「ゆうすけへ」と書いてあった。
母の字は昔から、少しだけ右上がりで、見ているだけで胸がほどける。
「これね、あんたが困ったときに読むといいよ」
母は、いつもの照れた笑顔でそう言った。
私は笑って受け取りながら、心のどこかで「また大げさだな」と思っていた。
母は昔から、転ばぬ先の杖みたいに、言葉を用意する人だった。
私が小学生のころ、熱で泣いた夜も、枕元にメモを置いてくれた。
「お水はここ、しんどかったら起こしてね」
ただそれだけの紙切れなのに、私は安心して眠れた。
だから、ノートにも同じ匂いを感じた。
やさしさの匂いだ。
私はそのノートを、引き出しの奥にしまった。
大切なものほど、なくしたくなくて、奥に押し込む癖がある。
そのときは、まさか“すぐ”必要になるなんて思いもしなかった。
夏のはじまり、母は体調を崩した。
最初は「ちょっと疲れただけ」と笑っていた。
その笑い方が、いつもより軽くて、私は嫌な予感を抱いた。
検査の日、病院の廊下は冷房が効きすぎて、皮膚がじんとした。
母は薄いカーディガンを羽織り、私より先に歩いた。
私はその背中を見て、なぜか子どものころの海を思い出した。
潮風に髪を乱しながら、母が何度も私の帽子を直してくれた夏だ。
「大丈夫、風が強いからね」
その声が、今も耳に残っている。
診察室で医師が言葉を選ぶたび、空気が重く沈んだ。
「治療はできますが、進行が速い可能性があります」
母は小さくうなずいて、私のほうを見た。
その目が先に言っていた。
“泣かないで”と。
私はうなずいた。
でも頭の中は白くて、音だけが遠くで鳴っていた。
帰り道、母はコンビニに寄って、私におにぎりを買った。
「こういうときほど、食べなきゃだめ」
私は食べられなかった。
けれど、母は私の手に袋を持たせて、逃げ道を塞いだ。
ああ、この人は最後まで、私の生活を守るつもりなんだ。
そんな確信が、胸の奥で痛みに変わった。
入院の日、母は病室の窓から空を見ていた。
「今日の空、きれいだね」
ただそれだけの言葉が、いつもより長く響いた。
母は点滴の管を気にして、私に笑った。
「大丈夫、大丈夫」
私は、その“大丈夫”が、母のためというより、私のためだと分かった。
分かったのに、受け取ってしまった。
ありがとう、と言う代わりに、私は「うん」としか言えなかった。
治療が始まってから、母は少しずつ痩せていった。
頬の肉が落ち、手首が細くなり、指輪がくるくる回った。
それでも母は、私にだけは弱音を見せなかった。
「眠れた?」
「仕事は大丈夫?」
「ちゃんと食べてる?」
いつも、私のことばかり聞いた。
そのたび私は、言えなかった。
“本当は、あなたが一番しんどいのに”と。
言ったら、母の強さが崩れてしまいそうで怖かった。
私は息子なのに、母の強さに寄りかかっていた。
ある日、母がぽつりと言った。
「ねえ、ゆうすけ」
「私ね、あんたが生まれた日、空がね、すごく高かったのを覚えてる」
私は笑ってごまかそうとした。
母は続けた。
「だから、空ってね、なんか安心するの」
その瞬間、春に渡されたノートが頭をよぎった。
私は引き出しの奥の、あの表紙を思い出して、喉が詰まった。
それから少しして、医師は言った。
「時間は、そう長くはありません」
丁寧な声だった。
だからこそ、残酷だった。
私はうなずいた。
うなずけたのに、受け入れられなかった。
母はその場で、私に小さく笑って見せた。
「ごめんね、心配ばかりかけて」
違う。
心配をかけたのは、いつも私のほうだ。
そう言いたかったのに、息を吸うだけで精一杯だった。
母がいなくなる前夜、私は病室の椅子に座り、眠れずにいた。
窓の外では、信号が静かに点滅していた。
赤、青、赤、青。
まるで「まだ大丈夫」と「もうすぐだよ」を繰り返すみたいに。
母の呼吸は浅く、細く、時々止まりかけた。
私はそのたび、心臓が凍るのを感じた。
母の手を握ると、驚くほど軽かった。
私は両手で包んだ。
温めようとした。
でも、温めたいのに温められないものが、この世にはある。
それが悔しくて、涙が止まらなかった。
母は薄く目を開けて、かすれた声で言った。
「泣かないで」
私は首を振った。
「泣く」
そう言ったつもりだったが、実際は声にならなかった。
母の指が、私の手の甲を、ほんの少し撫でた。
子どものころ、転んだ私の膝を撫でてくれたときと同じ動きだった。
その記憶が一気に押し寄せて、私は顔を歪めた。
翌朝、母は静かに息を止めた。
看護師さんがカーテンを閉め、医師が時間を告げた。
私は、母の顔だけを見ていた。
眠っているみたいだった。
でも、眠りなら、起こせば戻る。
これは違う。
もう二度と、戻らない。
その事実が、ゆっくり、ゆっくり、胸の底まで沈んでいった。
私は声を出して泣いた。
子どもみたいに、嗚咽を漏らして泣いた。
母の体温が、時間と一緒に失われていくのが分かった。
私はそのスピードに負けた。
葬儀の日、私は何度も頭を下げた。
「ご愁傷さまです」という言葉が、まるで別の国の言語みたいに聞こえた。
親戚は「立派だったね」と言った。
私はうなずきながら、心の中で叫んだ。
立派じゃなくていいから、生きていてほしかった。
帰宅して、玄関の電気をつけた瞬間、家の静けさが襲ってきた。
冷蔵庫の低い音が、やけに大きく聞こえた。
母のスリッパが、いつもの場所に揃っているのが見えた。
私はそれを見て、息が詰まった。
“帰ってくる前提”のものが、まだここにある。
なのに、本人だけがいない。
私はふらふらと自分の部屋に入り、引き出しを開けた。
奥にしまった小さなノートを、指先が探し当てた。
表紙の文字が見えた瞬間、胸がきゅっと縮んだ。
「困ったときに読むといいよ」
母の声が、頭の中で、はっきりよみがえった。
私はノートを抱えて、その場に座り込んだ。
手が震えて、すぐには開けなかった。
怖かった。
開いたら、母が本当にいなくなる気がした。
それでも、私はゆっくり表紙をめくった。
ノートの紙は、少し黄みがかっていた。
母が選びそうな、落ち着いた色だった。
指で触れると、ほんの少しざらっとして、妙に現実感があった。
私は息を吸って、最初のページを開いた。
一行目に、こう書いてあった。
「もしこれを読んでいるなら、きっと、すごくさみしいね」
私は、その一文で動けなくなった。
呼吸が止まるって、こういうことを言うのかと思った。
まるで母が、今この部屋のどこかに座っていて、私の肩越しに覗き込んでいるみたいだった。
「うん」
私は小さく答えてしまった。
誰もいない部屋で、独り言みたいに。
返事をした瞬間、涙が勝手に落ちた。
落ちた涙が紙に吸われて、丸い染みができた。
私は慌てて袖で拭いた。
でも、跡は消えなかった。
消えないのが、逆に救いだった。
次の行。
「泣いていいよ」
その下に続く。
「泣くのは弱いことじゃないよ」
さらに続く。
「涙は、心がちゃんと生きてる証拠だから」
私はノートをぎゅっと抱きしめた。
胸の奥で、何かがほどけていくのが分かった。
母は最後まで、私の心を“恥”から守ろうとしていた。
ページをめくると、母らしい現実的な言葉が並んでいた。
「ごはん、ちゃんと食べてね」
「お腹が空くと、心がもっと弱くなるから」
私は思い出した。
母が入院する前、コンビニでおにぎりを買ってくれたことを。
あのとき私は食べられなかった。
でも母は、私の手に袋を握らせた。
“生きるには、まず食べる”って、言葉じゃなく動きで教える人だった。
次のページ。
「洗濯物はためないでね」
「ためると、自分を責めたくなるから」
私は苦笑した。
母は私の部屋の洗濯カゴを見るたびに、同じことを言っていた。
「ためるとね、洗濯物じゃなくて気持ちが重くなるんだよ」
その言葉が、ノートから立ち上がってきた。
私は泣きながら、うなずいた。
分かってる。
分かってた。
でも、できない日がある。
母はそれも、分かっていた。
「夜がこわいときは、電気をつけて寝ていいよ」
「あなたは頑張り屋だから、無理しがちだけど」
私はその一文を何度も読み返した。
母は私のことを、ちゃんと見ていた。
私が「平気なふり」をしていることまで、全部見抜いていた。
そして、許していた。
さらにページをめくると、少し文字が小さくなっていた。
たぶん、体がしんどい日に書いたのだと思った。
「朝、起きられない日があってもいいよ」
「お風呂に入れない日があってもいいよ」
「歯を磨けなかった日も、あなたが悪いわけじゃない」
私はそこで、初めて自分がどれだけ怖がっていたかに気づいた。
母がいない世界で、自分の生活を維持できるのか。
自分を壊さずにいられるのか。
私はずっと、そこを恐れていた。
母はそれを先回りして、言葉を置いていった。
次のページに、急に短い思い出が挟まっていた。
「小さい頃、海で泣いたの覚えてる?」
私は目を見開いた。
母の言葉が続く。
「波がこわいって泣いたね」
「でも、砂浜に座って、空を見たら落ち着いたね」
「あなたは、空を見ると呼吸が戻る子だった」
私は、その場面を思い出してしまった。
五歳の夏。
波が足をさらって、私は怖くて泣いた。
母は抱き上げて、砂浜に座らせた。
「大丈夫」
「波はね、来ても戻るから」
「空はね、ずっとここにあるから」
母はそう言いながら、私の背中をゆっくり叩いていた。
私はいつの間にか泣き止んで、空を見上げていた。
空が高くて、青くて、そこにいるだけで安心した。
あの日の安心が、今、ノートの中にあった。
私はページをめくる手が止まらなくなった。
母の声を、少しでも多く吸い込みたかった。
次のページ。
「ねえ、ゆうすけ」
「もし、自分のことが嫌いになりそうな日が来ても、思い出して」
私はその行で、息を飲んだ。
母の文字が続く。
「あなたは、あなたが思ってるより、ずっと優しい」
私は崩れた。
声が、出た。
「……そんなこと、ない」
でも、ノートは返事をしない。
返事をしないのに、あまりにも的確で、涙が止まらなかった。
母は、私が自分を責める癖を知っていた。
仕事で失敗したとき。
誰かに迷惑をかけたとき。
私はいつも、自分の価値まで下げてしまう。
母はそれを、何度も止めてくれた。
「反省はしていいけど、あなた自身を罰しちゃだめ」
その言葉が、今、紙の上で生きていた。
そして、最後のページ。
たった三行だけが、静かに並んでいた。
「もし、どうしても会いたくなったら」
「空を見てね」
「そこに、いるよ」
私は、笑ってしまった。
笑ってしまってから、泣いた。
母らしい。
どこまでも、私の孤独を“ひとり”にしない言い方だ。
私はノートを閉じた。
胸のあたりが、痛いのに温かかった。
痛みの中に、確かに灯りがあった。
その夜、私は眠れなかった。
布団に入っても、耳が静けさを拾いすぎた。
時計の針が進む音が、心臓を追い立てる。
私は起き上がって、台所に行った。
冷蔵庫を開けた。
母が作り置きしていたものは、もうない。
当たり前なのに、その当たり前が苦しい。
私はコンビニで買ったおにぎりを思い出した。
“こういうときほど、食べなきゃだめ”
母の声が頭の中で響く。
私はレンジで温めた。
一口食べた。
喉が詰まって、涙が落ちた。
でも、食べた。
それだけで、少しだけ“生きる側”に戻れた気がした。
翌朝、仕事に行こうとして、玄関で靴ひもが結べなくなった。
指が震えて、輪っかがうまく作れない。
私はその場に座り込んだ。
母がいない。
もう「いってらっしゃい」と言ってくれる人はいない。
それが、いきなり身体に来た。
私は息を吸っても吸っても足りない感じがした。
怖かった。
このまま、何もできなくなる気がした。
そのとき、ノートの言葉が浮かんだ。
「朝、起きられない日があってもいいよ」
「あなたが悪いわけじゃない」
私は、泣きながら笑った。
母は、こういう瞬間の私を想像して書いたんだ。
私は立ち上がった。
靴ひもを結び直した。
失敗しても、ほどいて、もう一度やった。
輪っかができた。
私は玄関の鏡に映る自分を見て、言った。
「……いってくる」
声は掠れていた。
でも、前に出た。
会社の帰り道、夕焼けが広がっていた。
空が、思ったより大きかった。
私は立ち止まって見上げた。
雲がゆっくり流れていた。
母の言葉が胸の奥で触れた。
“空を見ると呼吸が戻る子だった”
私は深く息を吸った。
少しだけ、肺が広がった。
私は、会えない人に守られている気がした。
触れられないのに、背中を支えられている気がした。
それがたまらなく切なくて、たまらなくありがたかった。
夜、私は机に向かった。
ノートの隣に、白い紙を置いた。
そして母に返事を書いた。
「お母さん」
「今日も泣いた」
「でも、ごはんは食べた」
「洗濯もした」
「空も見た」
最後に、少し迷ってから書いた。
「ありがとう」
「ぼく、ちゃんと生きる」
書き終えた瞬間、涙が落ちた。
でも、胸の奥には小さな灯りが残った。
私は紙を畳んで、ノートに挟んだ。
母の言葉の隣に、私の言葉を置きたかった。
会話ができないなら、せめて往復書簡みたいにしたかった。
窓を開けた。
夜の空気は冷たくて、頬が少し痛んだ。
私は空を見上げた。
星が一つ、静かに瞬いていた。
「そこに、いるよ」
母の三行が、胸の中でやさしく響いた。
私は声にならない声で言った。
ただいま。
そして、明日も、生きるよ。

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