「“バンドだけは続けなさい”――母が残してくれた一本のベース」

ベースを持った少年 未分類

3年前のある日。

両親が離婚した。

俺と弟は、母さんについていくことになった。

それが、俺の人生の歯車が大きく音を立てて回り始めた日だった。

母さんはそれまでずっと専業主婦だった。

働いた経験はほとんどなくて、履歴書の書き方すら自信がないようだった。

最初はパートを始めた。

でも、一か月もしないうちに辞めてしまう。

職場の空気に馴染めなかったのか。

体力がついていかなかったのか。

理由を聞くたび、母さんは「大丈夫」と笑って、話を終わらせた。

笑い方がどんどん薄くなっていくのが、俺には分かった。

家計は、苦しくなる一方だった。

当時高校生だった俺はバイトを増やした。

でも、俺のバイト代だけで生活が回るはずがなかった。

電気代の請求書を見るたび、胃が冷たくなった。

冷蔵庫の中がやけに広く見える日が増えた。

「このままじゃダメだ」

そう思った俺は、高校を中退して現場の仕事に就いた。

夢とか将来とか、そういう言葉は一旦、棚の奥に押し込んだ。

生きることが先だった。

せめて少しでも家計の足しになればと、俺は家の物を売り始めた。

漫画を売った。

ゲームも売った。

棚が空いていくのを見ると、気持ちまで削れていくようだった。

それでも、ためらっていられなかった。

そして、最後に残ったのが楽器だった。

エフェクター。

ベース。

ギター。

俺の「好き」を全部詰め込んだ箱みたいなもの。

でも、それすら売ろうと思った。

手放さなきゃ、家が沈む。

そう本気で思っていた。

母さんに「売るわ」と言ったとき。

母さんは珍しく、強い声を出した。

「あんたの見つけた趣味なんだから、バンドだけは続けなさい」

意外すぎて、言葉が出なかった。

だって俺は、学校を辞めた時点でバンドも辞めたつもりだった。

楽器があっても意味がない。

そう思っていた。

だから売る気まんまんだった。

でも母さんは、引かなかった。

しつこいくらいに言った。

「それだけは、だめ」

結局、全部は売れなかった。

俺はベースを一本だけ残した。

残したというより、残された、みたいな感覚だった。

その後しばらくして。

仕事仲間に「バンドやらない?」と誘われた。

汗と埃の匂いがする現場で、ふいに言われたその一言が、心に引っかかった。

俺はもう、音楽なんてやってる場合じゃない。

そう思ってたのに。

なぜか、断れなかった。

そして俺は、バンドを再開した。

手元にあるのは、あのベース一本だけ。

アイバニーズの、正直いって立派とは言えないやつ。

アンプもない。

シールドもない。

シールドがないと、スタジオ練習すらできない。

俺は楽器屋で、一番安いシールドを買った。

600円。

「これで十分だろ」って、強がって。

それ以来、ずっとそのシールドを使っている。

音がどうとか、ノイズがどうとか。

そんなことを気にする余裕もなかった。

でも、心のどこかでずっと思っていた。

「母さんが残せと言ったのは、この一本のベースの方じゃない」って。

「俺が、好きなものを好きでい続けること」

それを、母さんは守ろうとしていたんじゃないかって。

――話が少しそれる。

今年の誕生日のことだ。

母さんが、いつもよりゆっくりした声で言った。

「いつも無理して頑張ってくれてるから……」

そして、包みを差し出してきた。

中に入っていたのは、モンスターケーブルだった。

ちゃんとしたシールド。

あの、名前だけ聞くと強そうなやつ。

母さんが、少しずつ貯めていたパート代で買ったらしい。

俺は一瞬で、頭が真っ白になった。

何やってんだよ。

バカ。

家計が苦しいのに。

そんな金、どこにあったんだよ。

母さん、楽器のことなんてシロートなのに。

楽器屋の店員にいろいろ聞いて選んだのか。

母さんが、知らない世界で、俺のために頭を下げて回ったのか。

そう思ったら、胸の奥が熱くなった。

母さんは、やつれた顔で。

それでも精一杯の笑顔で言った。

「誕生日おめでとう」

「まだ若いんだから、自分のやりたいこと、頑張りなさい」

その瞬間。

俺は、耐えられなかった。

恥ずかしいくらい泣いた。

体の水分が全部出るんじゃないかってくらい泣いた。

親の前で大泣きしたのは、中学の卒業式以来だった。

俺は、モンスターケーブルを握りしめたまま。

何度も何度も、心の中で謝った。

「ごめん」って。

「ありがとう」って。

言葉にすると壊れそうで、声にならなかった。

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