廊下の先、○○室の前には小さな案内板が立っていた。
「里親会 集合」とだけ、控えめな文字で書いてある。
その控えめさが、胸に刺さった。
目立たないように。
でも、ちゃんとここにいるよ、と言うみたいに。
おばあちゃんは看板を見つけると、ほっと息を吐いた。
けれど次の瞬間、足が少し止まった。
扉の前で、二人の男の子の手を握り直す。
まるで、これから入る部屋の空気を、もう一度確かめるみたいに。
受付用の机が一つだけ出ていて、白い箱と名札のシールが並んでいた。
担当らしい女性が、優しい声で言った。
「こんにちは。お名前、よろしいですか?」
おばあちゃんが名乗ると、女性はにっこり笑って、ペンを差し出した。
「こちらにお願いします。今日は来てくださって、ありがとうございますね。」
その「ありがとうございます」が、ただの挨拶じゃないみたいに聞こえた。
おばあちゃんの肩が、ほんの少しだけ下がった。
緊張が、ひとつほどける音がした気がした。
名札は三枚だった。
おばあちゃんのぶん。
男の子(大)のぶん。
男の子(小)のぶん。
男の子たちはシールを受け取ると、指先で角をつまんで、じっと見ていた。
自分の名前がそこにあることが、まだ不思議なのかもしれない。
大きい方の男の子が、そっとおばあちゃんに聞いた。
「これ、どこに貼るの?」
おばあちゃんは自分の胸元を指して、ゆっくり笑った。
「ここだよ。ほら、おんなじ。」
男の子(小)は、名札を逆さに貼りそうになって、慌てて手を止めた。
受付の女性が身をかがめて、目線を合わせた。
「ゆっくりでいいよ。できたら、見せてね。」
その声は、子ども扱いでも、同情でもなくて。
ただ「あなたはここにいていい」と言っていた。
男の子(小)は小さくうなずいて、慎重に名札を胸に貼った。
貼れた瞬間、顔がぱっと明るくなった。
「できた。」
その一言が、部屋の前の空気を少しだけ柔らかくした。
男の子(大)も、まるで弟に釣られるみたいに笑った。
おばあちゃんが二人の名札を見て、何度もうなずいた。
「うん。かっこいいね。」
扉の向こうからは、小さな笑い声や、椅子を引く音がした。
誰かの「こんにちは」が聞こえた。
その音が、壁越しに手を振っているみたいだった。
おばあちゃんは深呼吸をして、扉の取っ手に手をかけた。
その手が、ほんの少し震えている。
でも、逃げない。
二人の手を離さない。
私は少し離れた場所で、その背中を見守っていた。
声をかける理由はもうなかった。
道は繋がった。
ここから先は、三人の歩幅で進めばいい。
それなのに、胸が熱くて、目が痛くなった。
どうしてだろう、と考えて。
すぐにわかった。
私は自分のことを、重ねてしまったのだ。
保健センターに通い始めた頃の自分を。
「遅いですね」と言われるたびに、世界から置いていかれるようで。
手帳やネットの言葉を見ては、夜中にひとりで泣きたくなった自分を。
他の親子が軽やかにできることを、うちの子ができないとき。
私は笑っているふりをしながら、心の中で何度も謝っていた。
ごめんね。
私のせいかな。
私がもっと、ちゃんとしていたら。
そんな言葉を、誰にも聞かれない場所で繰り返していた。
でも今日、あの男の子の言葉が、私の中の何かを静かに変えた。
「本当のお母さんじゃなくても、毎日そばにいる人が、おかあさん。」
その定義は、血の話じゃない。
資格の話でもない。
うまくできるかどうかの話ですら、ない。
ただ。
今日も明日も、そばにいる。
手を握る。
名前を呼ぶ。
安心できる場所をつくる。
それだけで、人は誰かの「おかあさん」になれるのだ。
扉が、ゆっくり開いた。
おばあちゃんが一礼して、中へ入っていく。
男の子(小)が、最後にちょっとだけ振り返った。
私と目が合った気がして、私は反射的に笑ってしまった。
男の子は、ほんの少しだけ口角を上げた。
それは「知らない人への笑顔」というより、
「大丈夫だよ」という合図みたいだった。
扉が閉まる。
その瞬間、私は胸の奥で、固く結んでいた糸がほどけるのを感じた。
教室に戻ると、うちの子が先生の手を真似して、小さく拍手をしていた。
上手ではない。
リズムもずれている。
でも、確かに笑っている。
確かに、ここにいる。
私はその手を取って、ぎゅっと握った。
「きょうも、来られたね。」
子どもは意味を全部は分からなくても、うれしそうに目を細めた。
その顔を見て、私はやっと思った。
私は、完璧なお母さんじゃなくていい。
この子の名前を、今日も呼べるなら。
この子の手を、今日も離さないなら。
それでいい。
そして帰り道、ふと胸の中に浮かんだ。
あの三人の名札の文字。
あれはただのシールじゃない。
「ここにいていい」という許可証だったのだ。

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