【泣ける話】看護師の娘が見つけた父の問診票|診察券に隠された親子の和解

Ethereal garden within a mystical corridor 家族の話

私は、病院の匂いが好きではない。

消毒液と、古いリノリウムと、誰かの我慢が混ざったような匂いがする。

それでも私は看護師になった。

立派な志があったわけではない。

白衣を着ていれば、自分の生活だけは少し清潔に見える気がした。

それくらいの、情けない理由だった。

父は、私が看護師になったことを一度も褒めなかった。

「夜勤なんか、体に悪い」

「女がそんなに働いて、どうする」

「給料、ちゃんともらっとるんか」

いつも言い方がきつかった。

私はそのたびに、

「うるさいな」

と返した。

本当は、父の言葉の奥にあるものを、少しは分かっていたのかもしれない。

けれど、分かってしまうと、腹を立てる場所がなくなる。

だから私は、父をただの不器用な人間にしておいた。

そのほうが楽だった。

母が死んでから、父は急に年を取った。

台所に立つ背中が小さくなり、咳をすると、肩甲骨が薄い紙みたいに震えた。

それでも父は、病院へ行かなかった。

「大したことない」

「寝れば治る」

「年寄りはみんなこんなもんだ」

そう言って、仏壇の前で母の湯のみだけを洗っていた。

ある晩、私は父の家に寄った。

冷蔵庫には、半額の惣菜が二つと、飲みかけの牛乳が一本だけ入っていた。

流しの横には、開封されていない役所からの封筒があった。

父はそれを見つけた私から、乱暴に封筒を取り上げた。

「見るな」

「何それ」

「お前には関係ない」

その言い方で、私はすぐに思った。

お金だ。

父はお金のことを隠している。

私に心配をかけたくないというより、私に頼るのが嫌なのだ。

娘に頭を下げるくらいなら、体を壊しても黙っている。

そういう、古い男の意地だと思った。

「病院代なら、私が出すから」

私が言うと、父は怒った。

「馬鹿にするな」

その一言で、私も黙った。

馬鹿にしたつもりはなかった。

けれど、父にはそう聞こえたのだろう。

私は看護師なのに、人の痛みを聞く仕事をしているのに、父の痛みだけはいつも聞き間違えた。

翌週の朝、勤務先の病院で受付の人に呼び止められた。

「お父さん、今日いらっしゃってますよ」

私は一瞬、聞き間違いかと思った。

父が、私の病院に来るはずがない。

誰よりも私に弱った姿を見られるのを嫌う人だった。

外来の待合に行くと、父は隅の椅子に座っていた。

背中を丸め、両手で診察券を握っていた。

古い診察券だった。

角が丸く削れ、名前の印字も少し薄くなっている。

母が生きていた頃、家族で一度だけ来たときのものだ。

私に気づくと、父は気まずそうに視線をそらした。

「なんで言わなかったの」

私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。

父は口を曲げた。

「たまたまだ」

「たまたま病院に来る人なんていないでしょ」

「仕事中だろ。戻れ」

その一言で、私はまた腹が立った。

心配しているのに。

娘が心配しているのに、どうしてこの人は、いつも私を追い払うようなことしか言えないのだろう。

「お金のこと?」

そう言うと、父の指が少し動いた。

「検査代とか、入院費とか、そういうの心配して黙ってたの?」

父は答えなかった。

沈黙は、肯定よりも重かった。

「この前の封筒もそうでしょ。督促か何かだったの?」

父は私を見た。

ひどく疲れた目だった。

「違う」

「じゃあ何」

「いい」

「よくないよ」

「お前には関係ない」

その言葉で、私の中の何かが切れた。

「関係ないわけないでしょ。私、娘だよ。看護師だよ。どうして何も言ってくれないの」

父は低い声で言った。

「娘だからだ」

その言葉が、私には責めているように聞こえた。

娘だから迷惑をかけたくない。

娘だから頼れない。

そういう綺麗な話ではなく、まるで私が頼りにならないと言われたような気がした。

私は黙ってナースステーションへ戻った。

患者さんには優しくできるのに、父にはできない。

それが私の、いちばん見たくないところだった。

検査の結果、父はしばらく入院することになった。

すぐに命に関わるものではなかったが、放っておけば危なかった。

入院の説明をするとき、父は私の顔を見なかった。

「大げさだ」

とだけ言った。

私は、

「大げさにしないために入院するの」

と返した。

会話はそこで切れた。

父のベッドは、窓際だった。

夕方になると、病院の白い壁が少しだけ橙色に染まる。

父はその光の中で、いつも診察券を見ていた。

まるで、それが何かのお守りみたいに。

入院三日目の夜勤明けだった。

父の病室をのぞくと、父は眠っていた。

枕元の小さな棚に、診察券と、折りたたまれた問診票が置いてあった。

私はそれを片づけようとして、手を止めた。

問診票の裏に、文字があった。

父の字だった。

昔から、角ばっていて、少し右に傾く字。

そこには、こう書かれていた。

「娘には言わないでください」

最初の一行で、私は息が詰まった。

続きがあった。

「お金がないわけではありません。少しはあります。役所の封筒は、医療費の減額制度の案内でした。娘に見られたら、また自分が出すと言うと思い、隠しました」

私は紙を握る指に力が入った。

「娘は昔から我慢する子です。母親が死んでから、夜も働いて、笑っているふりが上手になりました」

胸の奥が、ゆっくり崩れた。

「私が病気だと知ったら、また自分の生活を削ると思います。あの子は優しいからではなく、優しくしないと自分を許せない子です」

涙が、先に落ちた。

読んでいる途中なのに、文字が滲んだ。

「本当は、看護師になったと聞いた日、うれしくて近所の酒屋で泣きました。誰にも言っていません。褒め方が分からず、体に悪いとしか言えませんでした」

私は口を押さえた。

声が出そうだった。

「先生、できれば娘には、私が金の心配をしていたことにしてください。そのほうが、あの子は怒れます。怒れるうちは、泣かずに済みます」

最後のほうは、字が乱れていた。

「父親らしいことを何もしてやれませんでした。せめて、あの子の仕事の邪魔にならない患者でいたいです」

私は問診票を握ったまま、廊下に出た。

朝の病院は、いつもの音で満ちていた。

カートの車輪。

誰かの咳。

看護師たちの足音。

その全部が遠く聞こえた。

私はずっと、父に愛されていないと思っていた。

いや、違う。

愛されていないと思ったほうが、楽だったのだ。

愛されていたと認めるには、あまりにも長い時間、私は父を悪者にしすぎていた。

病室に戻ると、父は目を覚ましていた。

私の顔を見て、すぐに視線をそらした。

「勝手に読むな」

かすれた声だった。

私は笑おうとして、失敗した。

「字、汚いね」

父は黙っていた。

「酒屋で泣いたの?」

そう言うと、父の顔が少し赤くなった。

「昔の話だ」

「私、知らなかった」

「言っとらんからな」

また、いつもの父だった。

でもその日は、その不器用さが、少しだけ悲しくて、少しだけ愛しかった。

私はベッドの横に座った。

「お父さん」

父は返事をしなかった。

「これからは、ちゃんと言って」

「何を」

「痛いなら痛い。困ってるなら困ってる。寂しいなら寂しいって」

父は窓の外を見たまま、小さく笑った。

「お前もな」

その一言で、私はとうとう泣いた。

看護師なのに。

病院の廊下では何度も人の涙を見てきたのに、自分の涙の止め方だけは、最後まで分からなかった。

父は困ったように手を伸ばした。

私の頭に触れようとして、途中でやめた。

その手を、私は自分から取った。

父の手は、思っていたより軽かった。

昔、私を自転車の後ろに乗せていた手。

熱を出した夜、額に濡れたタオルを置いてくれた手。

私の合格通知を、誰にも見せずに何度も読み返したかもしれない手。

その手が、私の手の中で小さく震えていた。

退院の日、父は新しい診察券ケースを胸ポケットに入れていた。

私が売店で買った、安い透明のケースだった。

「こんなの、いらん」

と言いながら、ちゃんと入れていた。

問診票の裏の紙は、私がもらった。

父は何も言わなかった。

代わりに、帰り際、古い封筒を私に差し出した。

「これ、読め」

中には医療費の案内と、もう一枚、小さなメモが入っていた。

母の字だった。

「この人は言えない人です。だから、あなたが聞いてあげてください」

私はその場で泣きそうになった。

父は照れ隠しのように、

「母さんは余計なことばっかり書く」

と言った。

病院の玄関で、父が立ち止まった。

「迷惑かけたな」

私は首を振った。

「迷惑じゃないよ」

父は少し考えてから、ぼそりと言った。

「じゃあ、またかける」

私は笑ってしまった。

泣きながら笑うなんて、子どもの頃以来だった。

春の風が、病院の自動ドアから静かに入ってきた。

父の胸ポケットで、診察券の角が少しだけ見えていた。

それはもう、病気の証ではなかった。

私たちが、ようやく互いの弱さを見せ合うための、小さな通行証のように見えた。

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