泣ける話

泣ける話

他人の成功を喜べない旅行代理店員|ライバルと再出発する感動短編

「それ、私の切符ばさみですよね」 誰もいない映画館のロビーで、木田はゆっくり振り向いた。 明日の上映会を待つ赤い座席は扉の向こうで黙り込み、売店の小窓には季節外れの風鈴が下がっていた。 夜風が入り込み、ちりん、と一度だけ鳴らした。「失くしたんじゃなかったのか」「そう思っていました、十年も」
泣ける話

【泣ける短編】左足を失った父と作業療法士の娘

父が左足を失った翌日、家の玄関にある黒い革靴を持ってきてくれと言った。「片方だけでいいの」私が尋ねると、父は顔をしかめた。「靴は二つで一足だ」踵の擦り減った、古い革靴だった。右の靴はともかく、もう履く足のない左の靴まで病院へ持ち込む理由が、私には分からなかった。父は昔から言葉が足りなかった。
泣ける話

【泣ける短編】亡き恩師から届いた最後の手紙

私は手紙を届ける仕事をしながら、自分宛ての手紙だけは、ひどく恐れていた。もっとも、四十二歳の独り身の男に、わざわざ便箋を埋めてくれる物好きなど、もうこの世には一人もいないと思っていた。故郷の商店街へ戻り、配達員になって三年が過ぎていた。昼間でも薄暗いアーケードには、錆びた看板と閉じたシャッターが並んでいる。昔は魚屋だった店の軒先で猫が眠り、風が吹くと、古い値札だけが人間の代わりに揺れた。
泣ける話

【号泣・短編小説】保育士の私が父の「歪な手縫いの名札」で愛に気づいた理由

私は、子どもを愛してなどいない。そんな恐ろしい告白をすれば、世間は私を冷酷な人間だと罵るだろう。あるいは、職業倫理に欠ける恥知らずだと石を投げるかもしれない。けれど、ひよこのアップリケが縫い付けられたパステルカラーのエプロンをまとい、園児たちの前で大仰な裏声を張り上げている私の内臓は、とうの昔にひからびている。私はただ、毎月の給料と、「優しくて立派な保育士さん」という薄っぺらな社会的体裁のために、心を持たないからくり人形のように微笑み続けているに過ぎない。
泣ける話

【泣ける短編】父の弁当箱に残されたメモ|工場で働く親子のすれ違いと和解

父が倒れた日の昼、私は工場の休憩室で、空の弁当箱を開いていた。黒いプラスチック製の、百円ショップで買った箱だった。食べ終えたのではない。朝、寝坊をして、何も詰められなかったのだ。それでも同僚に金がないと思われるのが嫌で、私は空の箱を箸でつつき、もう食べ終えたような顔をしていた。人間は腹が減ると正直になる、というのは嘘である。
泣ける話

【号泣短編】未読のまま逝った恩師からの手紙が、深夜のラジオで読まれた夜

ADなどと横文字にすれば多少は聞こえがいいですが、要するにただの使い走りであり、見栄えのしない雑用係です。午前二時四十五分。地方キー局の第3スタジオの副調整室(サブ)には、徹夜明けのスタッフたちのひどい体臭と、何時間も前に淹れられてすっかり酸化したブラックコーヒーの、泥のような匂いが充満しています。
泣ける話

【感動・泣ける短編小説】『インクの匂う指で』自己嫌悪の青年を救った母の手紙と家族の絆

インクの匂いというのは、一度爪の間に染み込むと、どんなに石鹸で洗っても落ちない。 僕は印刷工場の輪転機が吐き出す大量の紙屑と、重油と、独特の青臭いインクの匂いに塗れながら、毎月微々たる給料をもらって生きている。 世間から […]

泣ける話

三号室の鍵と、先生との最後の約束

恩師が亡くなったと知った朝、私は三号室の鍵を海へ投げようとしていた。民宿の裏手には、断崖へ続く細い道がある。冬の海は鉛色で、波が岩へぶつかるたび、戸を叩くような音を立てた。真鍮の鍵は、手の中で冷たかった。昨夜、先生が泊まった部屋の鍵だった。そしてもう、先生が取りに戻ることのない鍵だった。
泣ける話

【泣ける短編】亡き恩師のカセットテープ|ピアノ講師へ受け継がれた最後の言葉

恩師が亡くなった朝、私は七歳の少女に、休符の意味を教えていた。窓の外では、一晩で積もった雪が、町から色という色を奪っていた。屋根も、道路も、遠い山も、昨日までそこにあったものが、白い沈黙の底に沈んでいた。「先生、休符って、何もしないところ?」少女が鍵盤の上で指を止めた。「何もしないんじゃないの」私は譜面を指さした。
泣ける話

父が毎日見ていた名札に、私はようやく救われた

老人ホームの朝は、いつも名前から始まる。おはようございます、と言うより先に、私は名札へ手をやる。胸もとに小さく揺れる、自分の名前。黒い文字で、真鍋 恒一とある。入職して八年、その名札を毎朝つけるたび、私は少しだけ姿勢を正す。名前を名乗るというのは、相手の忘れていくものの前に、こちらが先に立つことなのだと、この仕事に就いてから知った。